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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 矢作神社由緒の検証 YUISHO_KENSHO


 由緒の検証

 矢作神社の由緒碑
  矢作神社
  鎮座地 愛知県岡崎市矢作町字宝珠庵壱番地
  祭 神 素蓋鳴尊 豊受大神 保食神
  例 祭 十月二日
  由 緒
 第十二代景行天皇の御代に日本武尊(推定72〜113頃)が東夷御征伐の時、軍神として素蓋鳴尊をお祀りし広前で矢を矧ぎ給いしため社号を矢作神社と称えた。
 社前の矢竹はそのいわれの跡といわれている。
 永保三年(1083)源義家が陸奥守として奥州へ征伐に行く途中日本武尊の故事にならって参拝されたと伝えられている。
 その後、建武二年(1335)新田義貞が足利尊氏との戦いで戦勝を神前に祈願した折社畔の石が鳴動した。
 これを神のご加護があると信じて大いに戦い遂に勝ちを収めたといわれ、「うなり石」として拝殿の西南に置いて在る。
 天文年中(1532〜1554)岡崎城主松平廣忠は祀田二十石を置いたが当社は中古より矢作橋改築毎に城主及普請奉行から奉弊寄進するのが例であったという。
 第一次世界大戦後帝国軍艦矢矧艦長以下船員一同の崇敬篤く艦内に矢作神社の分霊を奉斎して大祭を執行し又兵員一同正式参拝も行われ軍艦矢矧の模型を奉納されている。
 中古牛頭天王と称したが維新後に地名に因み矢作神社とした。
 明治五年九月十七日郷社となり、明治四十年十月には神饌幣帛料供進神社に指定せられた。
 秋葉神社には迦具土命が奉祀されました。

 保食神
 戦前の矢作神社明細帳には祭神「保食神」が記載されていないことから、字加護畑に在ったとされる稲荷天神を合祀したものと思われます。

 素戔嗚尊
 日本武尊の時代は、現在の矢作町辺りは海岸に近い河原だったものと考えられ、当時の官道東海道は高台である現在の北野町辺りから薮田町及び大樹寺辺りを通っていたものと考えられています。
 また、北野及び薮田の間は矢作川の川幅が広かったことから兵士の渡渉に戦術的不利を受けることが少なく、遠浅で旅人にとっても渡渉に適した所でした。

 明治時代になってから矢作神社となった
 矢作神社の前身は牛頭天王で、現在の矢作町字祇園地内にありましたが、水難を避けて現在の矢作神社境内にあった宝珠稲荷境内へ移して合祀され、主祭神牛頭天王となりました。
 境内には移す前の牛頭天王の灯篭及び移してからの牛頭天王の灯篭があります。
 明治の時代になり、神仏判然令により主祭神を素戔嗚尊とする矢作神社と社名を改められましたが、矢作神社という灯篭はないと思います。

 永保三年(1803)、源義家が陸奥守として奥州へ征伐に赴く
 義家は永保三年(1083)に陸奥守になり、同年九月に出羽国で清原武衡及び甥の家衡と戦っています。
 時期は伝説及び史実は合っていますが、義家が軍を率いて奥州へ赴くときに東海道を通った可能性はかなり低いものと思われます。
 義家は河内国石川郡壺井(現大阪府羽曳野市壺井)で生まれたとする説及び鎌倉で生まれたとする説があります。
 寛治元年(1087)十一月に武衡及び家衡を破り、武衡らの斬首を翌月に報告したが、朝廷はこれを義家の私戦と見做して陸奥守を解任されました。

 建武二年(1335)新田義貞が足利尊氏との戦いで戦勝を神前に祈願
 新田氏は、河内源氏三代目源義家の四男義国の嗣子義重(義家の孫)が上野国新田荘(現在の群馬県太田市辺り)を開発して新田氏を名乗るようになったことに始まると伝えられます。
 建武二年(1335)十一月、鎌倉に本拠を置いた足利尊氏(1305〜1358)は天皇に上野国新田荘の新田義貞(1300〜1338)討伐を要請しましたが、天皇は逆に義貞に尊氏討伐を命じました。
 建武二年(1336)十一月二十五日から二十七日に亘り、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞とその弟脇屋義助、足利尊氏旗下の足利直義及び高師泰の間で双方が三河国で矢作川を挟んで布陣し、足利勢はこれに敗れて遠江国へ退却しました(矢作川の戦い)。
 建武二年十二月十一日(1336・2・1)、尊氏は箱根・竹ノ下の戦いで新田軍を破って京都への進軍を始め、建武三年正月(1336・3)に入京を果しましたが、奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成及び新田義貞の攻勢に晒され、正月三十日の戦いで敗れて篠村八幡宮(現京都府亀岡市に鎮座)に撤退し、一旦九州へ逃れた後、建武三年(1336)四月に上京の途につき五月二十五日の湊川の合戦で勝利して室町幕府の礎を確立しました。

 天文年中(1532〜1554)岡崎城主松平廣忠は祀田二十石を置いた
 天文四年十二月五日(1536・1・8)に松平清康が二十五歳で殺害され、その跡を継いだ嗣子広忠も命を狙われるようになったことから、天文八年(1539)に岡崎城を抜け出して吉良氏の領内にある伊勢神戸の農民の家に匿われました。
 天文十一年(1542)五月十一日に叔父の松平信孝及び康孝兄弟などの協力があって広忠は岡崎城へ帰城しましたが、その五年後の天文十六年(1547)九月二十八日に叔父松平信孝と渡理川原で戦うことになりました。
 この戦いに勝利した広忠は元々体が弱かったこともあって、この頃に渡理の北方の矢作の地に牛頭天王を勧請したものと思われます。
 牛頭天王は祇園天神と称されその境内や神田が在った跡地辺りは、現矢作町字祇園として現在に伝えられています。
 天文十八年(1549)三月六日、広忠は享年二十四歳で病死しました(家臣岩松八弥に刺殺されたとする説もあります)。

 維新後、矢作神社に社名変更」
 由緒碑に「素蓋鳴尊によって祀られた矢作神社は中古牛頭天王と称したが維新後旧名の矢作神社に復した」ということが刻されていますが、現在の矢作神社の前身である牛頭天王以前の社名を示す史料は存在しません。
 延長五年(927)に纏められた「延喜式巻九及び同十」を「延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)」といいます。
 これには碧海郡の和志取(わしとり)、酒人(さかと)、日長(ひなが)、知立(ちりう)、比蘇(ひそ)及び糟目(かすめ)の各神社が六座、稲前(いなさき)及び謁播(あつは)の両神社が二座書されていますが矢作神社は記されていません。
 また、「御朱印黒印除地社領之分」に碧海郡の十六座、額田郡の九座が書されていますが、その中に額田郡の岡崎天王社領二石六斗六升はあるものの矢作神社に繋がるものは記されていません。
 東海道は海岸線に沿って徐々に南下し、治承四年(1180)八月十七日に頼朝伊豆国で挙兵し、文治元年(1185)三月二十四日に壇ノ浦の戦いで平家が滅びた後は相模国鎌倉から京の都への往来が増加するようになりました。
 矢作川に堤防が築かれたのは「康生元年(1455)の岡崎城築城に際し西郷弾正左衛門が堤防を築いた」とする説がありますがこれは城の周りに土塁を設けただけのものと思われます。
 「弘治二年丙辰(1556)に家康の父清康が堤防を築いた」とする説もありますが、「堤防がなかった頃の岡崎から池鯉鮒(現在の知立)までの間は洪水の度にその河筋が変り東川西川等何ヶ瀬にもなって流れており人家も稀で漂々たる河原野であった」と伝えられています。
 これらから考察すれば現在の矢作の地に神仏を祀る堂宇ができたのは、それなりの集落ができてからのことということが考えられますので、早くても十世紀頃からのことと推測されます。

 明治五年九月十七日に郷社に列格
 明治四年(1871)に太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」が発布され、明治五年(1872)三月に神祇省が改組されて教部省となりました。
 この頃に神社調査が行われて、碧海郡の各神社は明治五年(1872)十月頃に指示された神社明細帳を提出し、教部省は提出された神社明細帳に基づいて翌明治六年(1873)に社格を決定しました。
 「矢作神社は明治五年九月十七日に郷社に列格された」とあるのは、神社明細帳の提出日を以て列格日とされたこと者と思われます。

 ※神仏判然令

 太政官布告第百九十六(慶応四年三月二十八日(1868・4・20))
 一、中古以来某権現或ハ牛頭天王之類其外佛号ヲ以神号ニ相称候神社不少候 何レモ其神社之由緒委細ニ書付早々可申出候事 但勅祭之神社 御宸翰 勅額等有之候向ハ是又可伺出其上ニテ御沙汰可有之候其余之社ハ裁判鎮座台領主支配地等ヘ可申出候事
 一、以仏像神体ト致候神社ハ以来相改可申候事 附本地抔ト唱ヘ仏像ヲ社前ニ掛或ハ鰐口梵鐘佛具等之類差置候分ハ早々取除キ可申事
 右之通被 仰出候事

 ※官社以下定額・神官職制等規則

 太政官布告第二百三十五(明治四年五月十四日(1871・7・1))
官社以下定額及神官職員規則等別紙ノ通被仰出候。尤府藩県社郷社ノ分ハ先達テ差出候明細書ヲ以取調区別ノ上追テ神祗官ヨリ差図ニ可及候条其節万端処置ノ儀同官ヘ可相伺事
  一、神官従来ノ叙爵総テ被止候事。
  一、官社以下府県社郷社神官総テ其地方貫属支配タル可ク本籍ノ儀ハ士族民ノ内適宜ヲ以テ編籍可致事

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