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TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 日吉丸小六見ゆ(ひよしまるころくにまみゆ)

 日吉丸と小六の出会いの場は矢矧橋ではない
 いつしか「矢矧橋の上で野宿していた日吉丸を通りかかった蜂須賀小六が踏んだことが二人の出会いの場となった」とされるようになった。
 これは江戸時代中期以降になってからの誤った伝承と思われる。

 この逸話は絵本太閤記が基で、「日吉丸小六に見(まみ)ゆ」には「ある夜属手(てした)数多(あまた)引具(ひきぐ)し岡崎橋を渡りけるに彼の日吉丸此の橋の上によく寝て前後も知らで有りけるを小六通りざまに日吉丸が頭(かしら)を蹴りて行き過ぎる」とある。
 その挿絵も矢矧川や矢矧橋を窺わせるものではない。

 また、「汝幼稚(いとけなし)といえども賢(さか)しき者なり、今宵奉公の手初めに然るべき豪富の家へ手引きしてその方が器量を見すべしと云う。日和丸令承(りょうしょう)し先に立ちて岡崎の町はずれに至り。見れば富有の家居三軒斗り垣を高くし忍び返し密に成し用心堅固に構えたり。」とある。
 挿絵は岡崎橋と八町村の味噌蔵のある家居を合わせて誇張し描いたものであることを窺わせる。
 挿絵だけを見ると岡崎城の南西にあった松葉橋を岡崎橋として描けば対岸の家居は角久と見ることができるが、この橋は東海道を菅生川右岸側に移し城下を通してからのものである。


 繪本太閤記は、豊臣秀吉の生涯を描いた川角太閤記を基に、大坂の戯作者武内確斎及び挿絵師岡田玉山が組んで出版した読み本である。
 寛政九年(1797)に「発端」から本能寺の変で備中から京都に軍を返す場面の「秀吉単騎京都へ馳せ登る」までの初編が刊行された。

 寛政九年(1797)は徳川十一代将軍家斉の時代である。
 この頃には岡崎といえば矢矧橋と言われた時代であるが、確斎は矢矧橋とはしておらず、玉山も板橋で欄干の柱には擬宝珠を被せ、有名な三代矢矧橋を模しているが親柱に橋名を記してはいない。

 繪本太閤記は当初初編の刊行だけの予定であったがこれが大評判となり読者などの要望もあって、享和二年(1802)までの五年間に七編八十四冊が刊行された。
 基としたとされる川角太閤記は、豊臣秀次の家老で秀次が切腹させられた後は秀吉に仕え関ヶ原の戦い以後に家康及び家忠に仕えて筑後柳河城主となった田中吉政の家臣である川角三郎右衛門が、秀吉と同時代の当時の武士から聞いた話をまとめた聞書や覚書を基にして書いたもので元和年間に刊行された。
 五巻五冊からなるその内容は、天正十年(1582)の織田信長の甲州征伐から関ヶ原の戦いの前頃までのものである。
 依って、秀吉の事績として現在に伝わる逸話は、天文六年(1537)二月六日の誕生前の発端から天正十年(1582)二月三日に織田軍の先鋒隊が岐阜城を出発した頃までの多くは、武内確斎により面白く痛快に創作されたものと考えられている。

 歴史史料を基にしたのか否かは知らないが、菅生川に架けられて令和二年三月二十二日に供用が開始された桜城橋がある辺りは、十五世紀の終わり頃には既に橋が架かっていたという伝承があり、確斎はこの橋のことを知っていて思い描いたのかも知れない。

 2024/01/28追記
 明治四年(一八七一)刊行の「繪本太閤記初編〜三編」があり、著者不明、挿絵歌川芳虎、版元松延堂(伊勢屋庄之助)の初編の十一頁には『たくわへなけれはせんかたなく岡崎なる矢矧の橋の上に転寝して在りける』とある。
 「岡崎なる矢矧」とは「東矢矧」のことで、菅生川左岸の河口に近い明大寺村辺りのことであった。
 「岡崎なる矢矧の橋」は、「岡崎なる矢矧」の橋であって、岡崎なる「矢矧の橋」ではない。




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