昭和二十五年(一九五〇)三月九日、碧海郡矢作町は役場の建物を全焼しました。
町史編纂のため町民などから貴重な史料を集めて預かっていた時期で、この火災によりに預かっていた史料を焼失したことから、矢作町は歴史に関する情報の殆どを得られなくなってしまいました。
太閤検地以降の検地の際には、庄屋などの村役が予め地名などを記した検地元帳を作成して提出していたことから、地名の多くは村役が決めていたのです。
その検地時の地名は明治の時代になってからの字となって残っているものが多くあり、この地名にはそれぞれに由来があります。
矢作町には次のような字があります。
赤池(あかいけ)
池田(いけだ)
市場(いちば)
小河原(おがはら)
加護畑(かごばた)
建武二年(一三三五)、新田義貞が足利尊氏との矢作川合戦で祖先の例により牛頭天王に戦勝祈願した処、境内にあったこの石が鳴動しこれは神のご加護があると信じた義貞は矢作川右岸に加護の旗を大いに戦い勝ちを収めたという伝承があり、これに因んでその旗を立てたこの地を加護旗というとしたことに由来すると伝えられます。
しかし、現在の加護畑の文字があてられる前は籠中という地名がありそこに隣接してあったのが籠端でこの両地が合併して後に加護畑の文字が充てられるようになっていることから加護旗だったとして創作されたことが窺えます。
昭和二十年(一九四五)一月十三日午前四時前に起こった三河地震の時は、その三日前から矢作神社にあった唸り石が低い唸り音を発していたといいます。
金谷(かなや)
この辺りは湧水が豊富で鍛冶屋が多かった地であったことに由来するとされ、鍛冶屋が金屋と称されて金谷の文字が充てられるようになりこれが定着したものとされます。
神居(かみい)
祇園(ぎおん)
祇園精舎の守護神は牛頭天王とされ、牛頭天王は別名祇園天神と呼ばれることから祇園天神を祀る神社を祇園神社(祇園社)と称されます。
矢作神社の前身である牛頭天王は初め此処に鎮座されたことから祇園の地名としたことに由来するとされます。
水害で流失した牛頭天王はこれを機に水害を避けて宝珠稲荷明神の境内へ合祀され、神仏判然令により牛頭天王は矢作町の地名に因んで矢作神社と改め、宝珠稲荷明神は稲荷社として合祀されました。
宝珠稲荷明神は「軒を貸して母屋を取られる」ことになったのです。
北河原(きたがわら)
切戸(きれど)
城と称した時期もあり、島田氏の館の小さな南門があったことに由来するとされます。
毛呂(けろ)
西林寺(さいりんじ)
桜海道(さくらかいどう)
現在の矢作町字赤池から同町字市場へ通じる鎌倉街道があり、矢矧橋がなかった頃にはこの辺りで南下して現在の渡町にあった矢作川の渡し場へ至る海道が桜並木になっていたことに由来するとされます。
昔は海に近い街道を海道、山間の街道を仙道と呼び記しました。
因みに中仙道は江戸時代に中山道に改められましたが呼びは「なかせんどう」でした。
三反田(さんたんだ)
下川成(しもかわなり)
十兵衛荒井(じゅうべえあらい)
新田(しんでん)
末広(すえひろ)
元は盗人木村でそれが字になっていましたが、昭和四十一年七月二十八日から地元民が要望した字末広となりました。
尊所(そんじょ)
祇園に牛頭天王があった頃から牛頭天王の新田であった跡地であることに由来します。
高縄手(たかなわて)
出口(でぐち)
土井城(どいじょう)
島田氏の館の土囲(土塁)があった所に由来するとされます。
堂佛(どうぶつ)
中道(なかみち)
西河原(にしがわら)
猫田(ねこだ)
橋塚(はしづか)
羽城(はじょう)
島田氏の館の東の端に当たる大手門があった所で端城と呼び記されたこと由来し、羽城の文字が充てられるようになってこれが定着しました。
馬場(ばば)
竊樹(ひそこ)
島田氏が農耕神として祀った櫃竊(ひつこそ)明神があった地に由来します。
水害により流失した祠が流れ着いた所に祀られ、そこに数本の樹木が植樹されたのが村境であったことから後に両村がこの祠のある地を奪い合うことになり、奪われた方の村人はからこの木に因んで盗人木(ぬすっとぎ)村と呼ばれるようになりました。祠は盗人木明神と呼ばれるようになり、元の櫃竊明神の名と錯綜して竊樹明神の文字が充てられるようになって「ぬすっとぎ」明神とも「ひそかき」明神とも呼ばれ、その口伝誤りから「ひそこ」明神に転化してこれが定着したとされます。
宝珠庵(ほうじゅあん)
宝珠稲荷明神の庵があったことに由来するとされます。
馬乗(まのり)
八剱(やつるぎ)
割出(わりだし)