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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 浪合記 NAMIAIKI

 応永四年(1397)、世良田大炊助政義(弥次郎満義の子)は桃井右京亮宗綱(宗綱実父は三州額田郡吉良弥三郎有信の子、母は桃井駿河守義繁の女なり)と議して妙法院宗良親王の御子兵部卿尹良(ただよし)を上野国に迎え奉る。此尹良親王は遠江国飯谷(井伊谷(いいのや)のことで現浜松市北区内)が館にて誕生なり、御母は飯谷井伊介道政の女也。延元元年(1336)、尹良の御父宗良親王を道政主君と崇奉り遠江国に迎え旗を揚げて京都将軍と挑戦、尹良は大和国吉野に御座て御元服の後、正二位中納言、一品(いっぽん)征夷大将軍、右大将兵部卿親王に成らせ給う。元中三年八月八日(1386・9・10)、源の姓を受けさせ給う。然るを新田、小田、世良田、桃井等、其外遠江三河の宮方与力の者相議して桃井和泉守源貞識を以て吉野より上野国へ迎え移し奉る(貞識は桃井伊豆守貞綱の二男なり)。
 吉野より供奉武士
 大橋修理大夫定元、岡本左近将監高家、山川民部少輔重祐(或は朝祐)、恒川左京大夫信規、此四人を新田家の四家と云う。
 吉野より供奉公家庶流
 堀田尾張守正重、平野主水正業忠、服部伊賀守宗純、鈴木右京亮重政、真野式部少輔道資、光賀大膳亮為長、河村相模守秀清、此七人を七名字と号す。是十一家を吉野十一党と宮方の武士申す也。二心なく尹良君を守護し奉る。飯谷井伊介道政、秋葉の天野民部少輔遠幹、其外西遠江の兵共御旅行を守って先の駿河国冨士谷宇津野に移し田貫が館に入れ奉る。此田貫次郎と申者は元は冨士浅間の神主なり。神職を嫡子左京亮に譲り宇津野に閑居す。次郎が娘は新田義助の妾なりしかば其好(功)により宮を受取奉る。井伊介は親王を宇津野に入れ奉りて兵共をば残し其身は国に返りける。冨士十二郷の者は新田義助厚恩の者共なり。其中に鈴木越後守正茂、同左京亮正武、井手弾正少弼正房、下方三郎、宇津越中守を始め我劣らじと尹良を饗応し奉る。
 同五年(1388)の春、宇津野を出御ありて上野国に赴き給う所に鎌倉の兵共は宮を襲い奉る。十二郷の兵柏坂にて防ぎ戦う。尹良は越後守が館丸山に入給う。桃井和泉守四家七党守護し奉る。敵数日館を取巻て攻めけれ共宮方四方より起りて鈴木に加勢の兵多かりし。和泉守、丸山を出て鎌倉の大将上杉三郎重方、嶋崎大炊助が陳に懸けて主従百五騎上杉が備えたる真ん中へ切て掛る。上杉が兵五千余騎、桃井に追い立てらる。上杉が郎等(郎党)長野安房守も討たれ、兵共戦い疲れて引き退く。和泉守追討って往くを嶋崎は桃井が追い往く其跡を取切らんと備を右になす。桃井是を見て我勢を二手になし一手を嶋崎が三百騎に指し向け、残る勢を以て上杉を追い、大橋、岡本、堀田、平野、天野等都合二百余騎嶋崎に向けて戦いける。嶋崎も前後を取巻かれては悪かりなんとや思けん、勢を段々に引て一騎も討たれず山浪まで引きにける。上杉は二百余騎討たれ其夜は上一色に陣す。桃井も勢引きて皈(帰)る。井手弾正少弼越後守に語り曰、新田の一族の御働珍しからず候えども今日の御合戦某を始め十二郷の兵共目を驚ろし候と云う。鈴木云、老いては何事を申すも御赦免を蒙り申すにて候、大事の前の小事にて候、君の御供にて候えば必ず道すがら御合戦に危うき御働御無用と云う。貞識曰、鈴木殿の仰せ肝に入候、君の御供中は合戦は無益にて候えども鎌倉の者共、桃井が供奉のて候に何の沙汰なしと存ずる所も無念に存じ、其上にくるが面白さに追い候いしと笑ゝ語りける。
 鈴木も路次警固のために宇津越中守、下方三郎、鈴木左京、高橋太郎此四人に二百八十騎をさし添えて送り奉りける。尹良は丸山より甲斐国へ入り玉う。武田右馬助信長我館に入れ奉りて数日御滞留あり、八月十三日(1388・9・21)上野国寺尾の城に移らせまします。新田、世良田其外の一族寺尾の城に馳せ集る。同十九年四月二十日(1402・5・31)、上杉入道憲定兵を上野国寺尾に発し世良田太郎左衛門尉政親を攻む。政親は戦数回の後疵を蒙り今はいかにも叶うまじと覚えければ長楽寺に入て自害す。法名俊山と号す。二郎三郎親氏、勇力をはげまし敵陣を切りぬけ新田に赴く。同六月七日(1402・7・16)、木賀彦六左衛門尉入道秀澄が兵二十五騎を農人に出立せ、新田相模守義則底倉に蟄居せしを夜にまぎれ彦六が兵新田が家を取巻き時の声を上ぐ。
 義則進み出て戦い疲れ終に討死せり。同二十三年八月十五日(1406・10・6)、名月に事寄せて上杉入道禅秀鎌倉の新御堂満隆へ行き、謀叛を勧め廻文を以て武蔵国、上野国、下野国に触れにける。新田、世良田、千葉、岩松、小田等の一族時を待ける兵共思い思いに旗を揚げる。桃井宗綱禅秀に加えて鎌倉を攻めて江戸近江守を国清寺にて討取りぬ。宗綱やがて近江守が首を武蔵国荏原郡矢口村の川端に梟し高札を立つ。
今度攻相州鎌倉於国清寺討捕江戸近江守奉為新田義興主仍如件
 応永二十三年丙申十月十日(1416・11・8)
          桃井右京亮源宗綱
とぞ書にけり。
 近江守は義興を矢口の渡りにて船ののみを抜きて河水に溺らし殺しける。江戸遠江守が子なり。同二十四年正月十日1417・2・5)、足利満隆、持仲(満隆の養子)の親族上杉禅秀(氏憲の法名)が家頼百七十人戦敗れて悉く自害す。同五月十三日(1417・6・7)、岩松治部太輔武州入間川にて中村弥五郎時貞に生捕られて誅せらる。桃井宗綱は薙髪して下野入道宗徹とぞ名乗ける。同三十年(1423)、小栗孫次郎満重鎌倉を背き下総国に下りて結城に楯籠る。下野入道并(並び)に宇津宮左衛門尉持綱、真壁新七郎義成、佐々木隠岐入道等小栗に一味して合戦す。桃井は八月十三日(1423・9・26)に下野国落合に皈え(帰)りける。
 同三十一年(1424)、新田小三郎義一、世良田大炊助政義、同修理亮親季、同万徳丸政親、桃井入道宗徹、大江田安房守、羽河安芸守景庸(康)、同安房守景国、宇津宮の一類大岡次郎重宗、宇津越中守道次、大庭雅楽助景平、熊谷小三郎直郷、児玉庄左衛門尉定政、酒井与四郎忠則、鈴木三郎兵衛政長、天野民部少輔遠幹、同対馬守遠貞、十田弾正忠、宗忠、大草三郎左衛門尉信長、布施孫三郎重政、千村対馬守家通、石黒越中守、上野主水正、山内太郎左衛門、土肥助次郎、小山五郎左衛門尉并(並び)に四家七党以下の兵共尹良を供奉し上野国を出御有て、同四月七日に信濃国諏訪千野六郎頼憲が嶋崎の城に入御ましま(在)す。
 同国住人小笠原七郎正季、木曽が郎従(郎党の事)千久四郎祐矯並に高坂滋谷が一族等千野が城に参りて尹良君を慰め奉り旅行の御脛を休めける。世良田桃井其外十一党の者重ねて相談ありて尹良の御子良王君を一先嶋崎より下野国落合の城に皈皈し奉る。四家七名字并(並)に桃井貞綱、世良田政親、熊谷弥次郎、同弥三郎、桃井左京亮、宇佐美左衛門尉、開田、上野、天野、土肥、上田、小山等御供にて七月十八日(1424・8・21)に落合に皈城ありにける。尹良は千野が城を八月十日(1424・9・11)に御立有て三河国へ移らせ給いける時、「さすらひの 身にし有りなば 住み果ん とまり定めぬ うき旅の空」と書せましま(在)して千野伊豆守に賜りける。後の世まで千野が家の重宝にぞなる。
尹良は参河国へ渡御有りて吉良の西郷弾正左衛門尉正庸(康)其外桃井義繁が厚恩の者共多かりしかば是者共を御頼みありて上野国、下野国に時を待つ。新田世良田の一族を催し再び旗を揚げ落合にまします良王(尹良の子)と牒し合せ宮方の残兵を集めて合戦可然と相談一決して嶋崎の城を御出あり参河国へ赴き玉う。参河より御迎として久世、土屋等多く参りけり。十三日(1424・9・14)、飯田を越えさせ玉う所に杖つき峠にて賊卒道を塞ぎて財宝に心をかけ奪い取らんと馳せ集り此の山彼の谷より矢を放つ。小笠原千久が兵防戦して賊を征す。同十五日(1424・9・16)、飯田より三河に向う大野村より雨夥く降て道路大河の如し。未尅より風雨猶烈しく十方暗夜に等し。野武士又俄に起って駒場小次郎、飯田太郎とト名乗りて尹良君を襲い奉る。
 下野入道宗徹、世良田次郎義秋、羽河安芸守景庸(康)、同安房守景国、一宮伊予守、酒井七郎貞忠、同六郎貞信、熊谷弥三郎直近、大庭治部太輔景郷、本多武蔵守忠弘以下防戦す。賊を討てども切れども賊は案内はよく知りたり彼に集り此より駆け出て水陸を走り畦岸に聚て散々に矢を放つ。味方天難逃げがたく襄運(じょううん、成運)是に極めて尹良君免れさせ給う事がたく大井田、一井賊の為に討たる。下野入道并(並び)に政満は小山の麓の在家に主君尹良の御輿を舁入(うにゅう、担ぎ入れる事)させ御自害を勧め奉る。宮は残る人々を召され年ころ日(頃日「けいじつ」の事)此の忠義後の世まで御忘あるべからずとて甲斐甲斐しく御生害有りければ入道を初め主従二十五人思い思いに自殺し家に火を懸け悉く焦爛せしこそ悲けれ。
 政満は御遺言を守り此難中を免れて上野国にぞ皈え(帰)りける。時は応永三十一年八月十五日(1424・9・16)、信濃国大河原にて尹良親王御生害なり。宮の御腹なされし処とて世話に宮の原と云うなり。討死の死骸を埋めて一堆塚とす。是を千人塚と云也。石塔は信濃国並合(浪合)の聖光寺に有りとなん。応永三十一年八月十五日(1424・9・16)合戦討死法名大龍寺殿一品尹良親王尊儀(後醍醐天皇皇孫)、大円院長□宗徹大居士(桃井入道宗綱)、智真院浄誉義視大居士(羽河安芸守景康)、依正院義傳道伴大居士(世良田義秋)。

 良王君伝
 御父は兵部卿尹良親王母は世良田右馬介政義の女也。上野国寺尾の城にて誕生。正長元年、寺尾より下野国三河村落合の城に入らせ玉う。永享五年(1433)、上野国を出て信濃国に赴き給う。笛吹峠にて上杉が兵馳せ来りて戦う。良王君木戸(水戸)河内守が城に入り給えり。同五月十二日(1433・6・8)、木戸が城を去て木曽が所領金子の館に居す。千久五郎金子より我が館へ迎え奉る。同年(1433)の冬、世良田政義、桃井伊豆守貞綱等良王を尾張国海部郡津嶋へ入れ奉り然るべしとて四家七名字其外の兵士一決して、同七年十二月朔日(1435・12・29)、三河国を打越さんとて並合(浪合)に至り給う。然る所に先年一宮伊予守に討たれし飯田太郎が一類宗綱に討たれし駒場小次郎が弟其外彼等が親属とも宮方は親兄弟の敵なれば此所をば通すまじ。
 討取りて孝養にせよやと大勢馳せ聚り良王を取巻きけり。桃井貞綱、世良田政親、児玉貞廣以下並合(浪合)の森の陰より討ちてかかり賊徒百三十余人討捕える。同二日(1435・12・30)、酉の尅より亥の時まで防戦う。其間に良王をば十一党宇津宮、宇佐美、天野、上田、久世、土屋、佐浪等合の山まで退け奉る。貞綱、貞廣を始め野田彦次郎、加治監物以下二十一騎討死せり。同三日(1435・12・31)、桃井満昌合の山にて稚子に問うは汝等は何の里の者ぞ、昨日(浪合)の合戦の終は不聞☆と稚子七八人の内一人答曰、某は並合(浪合)近村の者にて候、昨日並合(浪合)の町口の家に武士大勢込入腹切りて候、大将も御腹召され候由承候と云う。
 満昌其腹切りたる者共の死骸は如何にと問う。稚子曰、武士共切腹の後、家に火を懸けて候いしが風烈吹きて並合(浪合)の町中皆焼失候也、今暁何者とは知らず一文字の笠印一番笠印竪木瓜の紋付たる兵共焼跡をさがし鎧太刀の焼金を拾い申すを見て通り候いし哀れなる事共也と語る。満昌是を聞きて良王君に告申せば頓(とみ)て大橋修理太夫定元を召して満昌に添えられ、平谷より並合(浪合)に遣わし討死の者共を吊はしむ。一文字の笠印は世良田殿、一番は山川、木瓜は堀田なり。何も満昌、定元に会いて共に涙を流しける。政親辞世の倭歌をある家の蔀(しとみ)に書きをかれし。定元討死の死骸を取集め並合(浪合)の西に寺ありければ此僧を頼みて葬りける。同日の暮に定元は平谷の陣所に皈る。満昌は野武士等が首を梟し良王君政義の残しをかれし歌を聞きしめして御袖を濡らされける。其歌に「思いきや 幾世の淀を 凌ぎ来て 此の浪合に 沈むべきとは」。
 御供の士卒此に跼(せくぐま)し彼に蹐(ぬきあし)て天地も寛(ひろ)からず。同五日(1436・1・2)三河国鳴瀬(成瀬)村に到る。里人是の人々を疑いて入れざりしかば満昌祖父の所領坂井郷(一説に作手郷)に行きて正行寺を頼む。正行寺は満昌が親戚下妻が知人なり。良王此所に四、五日御滞留有りて尾州津嶋大橋定省が奴野城へ入り給う。
 永享七年十二月二十九日(1436・1・26)、良王君尾州津嶋入、御四家七名字、宇佐美、開田、野々村、宇津宮、十五人御供なり。時に粮米(ろうまい、糧米の事)を絶え一会村(後に市江村)より米五十石余を献す。是米を十五人の者に領給う。翌年正月二日(1436・1・29)より飯粮なかりしに日置村より米二十五石を進す。又此を御家人に賜う。其れより十五家毎歳正月二日には必ず米を撞くことは是より始まる津嶋年始の嘉例なり。良王尾州に隠れ給う。後に宮方の武士諸国に蟄居す。其大概如左。
 桃井大膳亮満昌、三州吉良(現西尾市吉良町)の大河内に住す。参州桃井と云い是裔なり。大河内坂本の祖。
 大庭雅楽助景平、三州深溝現額田郡幸田町深溝)に住す。稲吉祖。
 熊谷小三郎直郷、三州高力(現額田郡幸田町高力)に住す。参州熊谷此裔也。高力の祖。
 児玉庄左衛門定政、三州奥平(現新城市作手)に住す。奥平祖。
 酒井与四郎忠則、三州鳴瀬(現豊田市足助町成瀬)に住す。後大浜の下宮に蟄居、成瀬七郎忠房、太郎左衛門忠親は正行寺に居す。
 此三人者兄弟なり。新田の一族大館の裔、大館太郎兵衛親氏の子なり。
 大岡忠次郎重宗、三州大草(現額田郡幸田町大草)に住す。大江田の裔なり。
 鈴木三郎兵衛政長、三州矢矧に住。
 大草三郎左衛門信長、信濃国小笠原七郎政季の弟八郎政信(後称豊後守)の子也。遠江国有王の高林善八郎政頼が弟。
 天野民部少輔遠幹、遠江国秋葉の城に居住す。対馬守遠定の父也。遠幹永享七年十二月(1436・1)、兎を秋葉山にて狩りし富樫の林介に附て三州の政親(政親は徳川殿なり)に贈りし也。
 塩尻云、永享十一年十二月(1440・2)、天野民部少輔遠幹、己領内遠州秋葉に於て兎を狩得て信州の林藤介光政という者に依て徳川殿に献ず。
 布施孫三郎重政、小笠原が郎等(郎党)也。信州より良王を供奉し三州に赴き野呂に居住す。
 宇津十郎忠照、三州前木に住す。桐山和田の大久保祖也。元は駿河国富士郡住人宇津越中守の二男也。
 宇津宮甚四郎忠成、同国大久保に住す。
 熊谷越中守直房、近江国伊吹山の麓塩津に住す。雨森が一族となる。江州熊谷是也。
 土肥助次郎氏平、土肥三郎左衛門尉友平の子也。尾張国愛智郡北一色に居す。
 長谷川大炊助重行、越中国名子(現高岡市)の貴船山城(木舟城)主石黒越中重之が子、尾州春日部郡如意に居す。
 矢田彦七之泰、堀田の一類尾州春日部郡矢田に居す。此外諸氏処々に潜居せし者猶多しくは記すに不、永享七年十二月二日(1435・12・30)、合戦討死法名定綱院義功鉄柱居士(桃井貞綱)、天光院真誉紅月居士(世良田政義)。是は良王津嶋奴野の城御座の時、先年戦死の武士等が夢後を吊わせ給いし時の法名とかや。良王の供奉の僧蓮台寺某阿、相模国藤沢の遊行の弟子良王の御供にて尾州津嶋に居住せり。依之蓮台寺建立す。吉野より尹良親王に供奉せし僧には明星院、実相院、宝寿院、観音院は良王の祈願所なり。依て上野国より尾張国津嶋まで供奉す。依之津嶋に観音院の一寺建立也。天王の社僧となる。四筒寺也。

 一品征夷大将軍尹良親王
 応永三十一年八月十五日(1424・9・16)、信濃国大河原に於て薨(こう)す。大龍寺殿と号す。尾張国海部郡門真庄津嶋天王社の境内若宮是也。永享八年六月十五日(1436・8・6)、十一党の者の社を建て祭る。同郷大龍寺は親王の御菩提所也。良王君、明応元年三月五日(1492・4・10)逝去、御歳七十八、瑞泉寺殿と号す。同三年三月五日(1494・4・10)、天王の境内に社を建て御前大明神と称し奉り始めて祭る。永享七年十二月二十九日(1436・1・26)、良王津嶋天王の神主が家に渡御七名字の者共神楽を奏す。此吉例末代まで用べしと也。同八年正月元旦(1436・1・28)、雑煮を良王に上る。魚なし伊勢蛤を羹(あつもの)とす。御飯は半白米也。汁物は尾張大根の輪切、膾(なます)は小鰯の干たるに大根の削を入れて上る。此年より御流労(流浪か)なし。
 永享八年二月十一日(1436・3・7)、京都より平井加賀守廣利、公方家の命を奉じ三千の兵を率し、参河国遠江国に下向し新田の余族を捜り求む。故右京亮政義の二男万徳丸政親、此時蔵人と称して三州松平に隠居給いしを、とかくして生捕て梅原肥前守に預く。又桃井満昌をば正行寺にて捉え、江州志賀澤田八郎に預く。児玉貞政をば奥平にて欺き捕えて布施因幡守にぞ預ける。此三人を以て京都に皈(帰)り室町の獄舎に入る。五月三日(1436・5・27)、三條河原にて三人を失うべきに定まりける。
 平井情ある者にて頃日(けいじつ、近頃の意)遊行上人在京の時なれば、道場に行きてあばれ三人の命を助けましま(在)せかしと申ければ上人けにも(「褻(け)にも晴にも」の事か)とて翌日弥阿弥(弥弥「いよいよ」の誤りか)を以て将軍義教に言上して曰く、三河の罪人近日御刑罪の由、其れにつき古例に同氏の朝敵の首は朱塗にして梟し候とかや。其昔頼朝卿の弟其外同志の者の首を藤澤に梟せられし時も、朱塗とこそ伝え承り候。然るべくは古例の如くせさせ給えと申さる。将軍聞(きこし)めして尤也、其上朱にて塗りては首の肉も早くは爛(ただ)れまじとて廣利に命じて三人が首を切て朱塗にして獄門に懸くべしとぞ仰せける。
 廣利畏まり頓(やが)て三人をひそかに獄中より出し、己が宿所へ迎え賀茂静原、梅谷修理亮が家に潜し居き年のほど似たる罪人三人を殺し首を朱に染め獄門にぞ懸ける。其後政親并(並)に桃井、児玉ひそかに遊行上人の弟子となりて、剃髪して時家に交り四国にぞ出にける。義教将軍赤松満祐が為に弑せられ給いし後、世廣くなりて満昌は三州に皈(帰)り大河内式部少輔と改称す。貞政も再び三州に来り作手に住し奥平監物とぞ称しける。政親は政阿弥陀佛とて上野国万徳寺に行いすまして御座けるが文正元年十月(1466・11・17)に寂し給いけりとかや。
 永享十一年(1439)、洞院大納言実熈、三河国に流され大河内に在す。嘉吉三年(1443)、皈(帰)落有りて内大臣に任ず。皈(帰)落の時松平太郎左衛門尉泰親、当家の者にて金銀を借りし奉りて供奉す。泰親の女は実熈の妾なり。此妾に男子一人有り、富永五郎実興と称す。三河国富永の御所と云うは実興殿の事なり。三州山本の祖也又尾崎、山崎等も此子孫也。実熈は東山左府と称す。従一位、康正三年(1457)に出家法名元鏡、博学多才の人也。尾州津嶋其法式船十一艘を飾り、十一党の者の家の紋を引く。此祭始る事、同国佐屋村に台尻大隅守と云う剛の者あり。
 良王に讐敵なり、此台尻を可討計策なり、天王神祇あり、大隅一族を催し船を飾り津嶋に推し来る。十一党の船十一艘は津嶋にあり。大橋が船一艘は一会(市江)村より推し出す。相図(合図)を定めて大橋が船推す渡るを十一艘の船相待大隅守此計を不知、一族を船一艘に乗せ祭を見る。相図(合図)よきと大橋が船推出し津嶋に来るを見て十艘の船も推す。前後より台尻が船を取巻きて時の声を揚げて大隅守が船を討沈む。其一類不残討たれ水に溺れて死する者多し。宇佐美、宇津宮、開田、野々村は陸に居りて水をおよぎ上る者共を討捕える。是に依て祭の船を出さず大矢部主税助は台尻が一味の者なりしが、良王に内通し台尻が船の幕を取て船中見えるようにぞ支度しける。其後大矢部は命をたすけ、賞を賜て天王拝殿の番にぞ加えける。
 後世に至るまでだんじり討と囃子べしと良王の命に依て毎年囃子か(変)わる事なし。台尻を討しは十四日の夜なり。十一党の乗りたる船をば一類一党の者の外堅く禁じて不乗、或は他家を乗ずる時は四家七名字の者の装束を免して乗ずるなり。是をば主達家と名ず(づ)く。良王自ら神主の家を継ぎて天王の境内に居ましま(在)す四家は奴野の城を守リ宮中の守護也。七名字は社家供僧往古より執行し来る。神事祭奠(さいてん)毎に晨(まいしん)宮中に出仕して酒掃(酒部と掃部の事)以下の怠慢の下知(げじ)人也。宇佐美、今津宮、開田、野々村は津嶋五ヶ村の町人百姓其外他国より参詣の武士の役人也。

 尾張國海部郡門真庄津嶋社
 牛頭天王は欽明天王の御宇海部郡中嶋に光を現す。是を見れば柳竹に白幣あり。神詫に「我れは素盞烏尊也。此所にましま(在)して日本の惣鎮守となるべし」と依之社を建て崇め奉る。
 始て柳竹に現して鎮座し玉うより柳竹を居守とは号するなるべし。 素盞烏尊は天照大神の御弟にて武塔大神とも申し奉る。村上天皇の天暦二年戌申(948)勅使有リて社を建て給う。或説曰、中嶋郡玉の村の大神神社御同躰と云々、今の柏森の地なり。
 後村上院建徳元年正月二十五日(1370・3・1)、正一位を授け日本惣社と号す。牛頭天王、八王子、一王子、是津嶋三所と云う。後亀山院弘和元年(1381)(「元中元年(1384)」の誤り)の冬、勅命を奉て大橋三河守定省造営す。今の宮地也。左太彦宮、今弥五郎殿是なり。
 武内大臣と平定経と二座也。定経は地主の神なり。後村上院正平元年七月十三日(1346・8・8)、夢相ありて堀田弥五郎正泰、後叙従五位下、任左衛門佐。崇奉る時の人願主の名によりて世に唱て弥五郎殿と云う。

 奴野城
 大橋三河守定高、正慶元年(1332)に始めて築く。其前は城なし。右大将頼朝卿より大橋の先祖肥後の入道貞能に隠退の領として尾張國海部郡門真庄を永代下し賜う。是故に足利家天下を知り玉うと雖ども大橋氏領知、頼朝下文の如くなり。定省が時良王を津嶋に隠し申せ共京都より何の子細なかりしとぞ。
 肥後守貞能、文治の此より津嶋に居す。其子貞経肥後國に住せり。貞経が子大橋貞康、参河國額田郡に往て居す。其所を大橋と号す。大河内中根大橋此三ヶ村は隣郷なり。
 尹良親王の女櫻姫と申す姫君大橋定省に嫁して男子数多生ず。修理亮貞元、三河守信吉等なり。

 大橋家傅
 其先祖は九州の守護大橋肥後守平貞能末葉なり。肥後守平家滅亡の後は肥後國大橋と云う所に蟄居す。其後宇津宮へ仕て常州に赴き出家す。三河國に移りて住す。其所を大橋と云う。然て尾張國熱田に潜居せり時に農家の女二人を妾として各ニ女を生ず。かくて頼朝、貞能を尋しむ。尾張國原の太夫高春が扶助する由聞こえしかば梶原源太景季に仰せて原が城を攻めしむ。貞能を虜にして鎌倉に下る。即比企谷の土の篭に入る。貞能が妻肥後國にて生せし男子一妙丸(後称貞経)父が生死を尋子鎌倉に下る。鶴岡の八幡宮に毎日毎夜詣て法華経を高声に読誦し父の事を祈る事数月也。容色直人にあらず。世の人奇異の思をなす。此事頼朝卿の御台所聞召され御尋あり。頼朝卿にかくと告給う。頼朝卿即これを召て意趣を問しむ。一妙丸泣きて父が事を詳に上達す。是れに依て憐愍を加えられ貞能が命をたすけ安堵の下文を賜り九州に皈え(帰)ざる。此大友の元祖なり。
 此一妙丸貞能が家を継給うなり。貞能を尾張にて扶持せし原の太夫高春は千葉上総介広常が外甥なり。薩摩守平忠度の外舅也云々。貞能が子大橋太郎貞経後裔、代々尾張三河に居住す。貞能尾張にて生せし四女子(二人の妾同月同日に二子を生ず)後に頼朝卿鎌倉に召て一人をば三浦佐原太郎平景連に下さる。真野五郎胤連が母也。一人をば佐々木三郎兵衛西念に下さる小三郎盛季が母なり。一人をば安芸國羽山介宗頼に下さる。一人をば大友四郎大夫経家に下さる。豊前守能直が母也。彼四女子生れたる里を末代までの験と其村を四女子と名づく。其後四女子の母を神に祭れしめ給う社あり。後に是れを取たが(違)えて頼朝の宮と号すとなん。
 長享二年戌申九月十八日(1488・10・31) 天文二年癸巳三月五日(1533・4・9)写之了不可及他見者也 正徳三年癸巳九月(1713・10)中旬写之者也

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矢作町界隈記

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