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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 矢作古城址

 碧海郡矢作村の字端城(矢作東小学校北、現在の字羽城)に島田出雲守平蔵の城があり、字土井城(矢作東小学校北西)に島田弾正の城があって、人々は矢作の両島田氏と称したといいます。
 現在の字羽城は館の大手門前辺りで城の端即ち端城が転訛したもので、字土井城は館の土居即ち土塁が転訛したものという。
 島田氏は土岐氏の庶流土岐頼房が濃州から来て姓を島田と改め矢作に住して松平広忠及び家康に仕え二十四村を領した。
 両島田氏が兄弟なのか従弟なのかなどについて一切明らかでなく、家忠日記(徳川家康の家臣松平家忠が遺した日記で、家康・信長・秀吉らの動向や家忠自身の私生活が記されている)や三河後風土記等に島田弾正の名は所々に見えるが出雲守の名は見当たらない。



 矢作村に古城二ヶ所あり、島田弾正と島田出雲守平蔵の世に両島田と号す。
按ずるに兄弟か従弟か一揆の記し無く御味方の士と言う中に矢作には島田弾正、出雲とあり。
 然れども家忠日記、三河後風土記等に島田弾正の名は諸所に見ゆると言えども出雲守の名は余り見当たらず。
 後風土記に言う。
 慶長五年(1600)家康公景勝退治として下野国小山に御付の時上州水戸の城主佐竹右京太夫義宜は敵とも味方とも不分明なり。
 此の時島田治兵衛、後の号弾正を御使として義宜方へ仰せ遣いければ今度景勝背き秀頼卿の命に謀反を企てるに依り之を退治として家康並びに諸大名発向する所に佐竹父子景勝一味ならば忽ち馳せ向かいて水戸の城を攻め落とし其の後会津へ向かうべし。
 但し味方すべきや否の事急度(きっと)返答せらるべしと荒々と仰せ付かわされけり。
 治兵衛則ち水戸へ至る案内を申し入るを義宜則ち対面す。座の左右には家老頭人、評定人其の外大身(たいしん=身分の高い人)の侍近習の輩、席を連ねて並び居たり。
 冶兵衛は生得(しょうとく=生まれつき持っていること)其の志不敵にして器量の男成りければ少しも臆する気色もなく家康公の御口上を清々と述べて演説す。
 寛明摘要に言う。
 寛永八年(一六三一)八月十日豊島刑部殿中において井上主計頭老中をを殺す。
 又曰和言う。
 今度豊島刑部が意趣何事を尋ぬるに島田弾正の兄越中守が息女を井上主計正の息、河内守十四歳方へ縁組の事刑部が取り持ち首尾相調いの処に鳥井土佐守成次は娘に縁組むとして豊島を呼びて言う。
 兼ねて客の才覚にて縁組究め候処に上意を以って賜う鳥井が娘再三固辞に及び右の趣を言上すと言えども強いて難及難渋御請け申したりと語る。
 豊島が言う。
 其の仔細言上足らむに争うでか押して仰せ付かりし島田は小身(しょうしん=身分の低い者)なり鳥井は大名也。
 故に約を変じぬは甚だ無道なりと恨みて宿所に帰り則島田方へ書状を以って右の趣申し遣わし堪忍難成の旨告之。
 島田は言う。
 主計頭不義不通不及是非ず、客と吾と可謂不運可被任其意云々(不義不通に及んだものに非ず。運が無かったものと思いなさい)。
 此の島田は去る寛永五年堺の政所を仰せ付かりしが病気により御免蒙りを御訴訟申し水野河内守に替り其の身は暫く引っ込み保養し居る内なり。
 然るに殿中に於いて豊島主計頭を聞き則脇指を以って腹を突き立てる。
 近習の者取り付けて之を留め一族等集まりて仔細を問う。
 島田が言うに癪痞大きに脹れて身を苦しむ故に癪痞を突きむと答う。
 則外科を招き見せるに脇より腸出たり。
 漸く縫い腹を巻き膏薬を外し養生相叶由を申す。
 島田が言う。
 汝は上手なり。此の手にては治療に出精なれば不可死と言い外科帰る。
 其の直後刀脇指を取り隠す時に透きを見合わせ腹巻を解きて息を張り則腸出たりしを手を以って引き出し終に死す。
 故に病死と称し跡式相違なく之を給うと言う。
 此の弾正は子なるべし。










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