本文へスキップ

神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 鏡立山光明寺 KOUMYOUJI


  矢作町字加護畑六十九番地の光明寺は時宗の寺院で山号を鏡立山と称し、次のような由緒が伝えられています。
「当山は往昔光居智通上人の開基による天台宗寺で、大同四年癸丑十月十五日(809・11・29)に智通上人が遷化(高僧の死)しその後三百十八年余の間無住持の寺となった。
 人皇七十五代崇徳天皇(1119〜1164)御宇の大治三年戊申六月二十五日(1128・7・31)に知達上人が再び開基し、その後光明寺と称して寺中三ヶ院、末寺二ヶ寺の建立があった。
 その後の矢矧川の洪水により本尊堂宇寺院末寺等を流失し漸く当山一院のみが再建され、建久二年(1191)に源頼朝が堂宇を再建し供田若干が置かれた。
 文永八年八月十日(1271・9・22)に出家した清観が一遍上人の御化導を伝え聞いて供奉するようになり、一遍上人が三州へ入り当山に於いて三日間の御礼御化導があった。
 この後の清観は当山に住し、五世住持となってその時代の弘安二年(1279)に時宗の門流に入った。
 建武二年(1335)に新田義貞(1300〜1338)がこの地に陣を置いた時、松井源太夫の女が義貞に侍して一男を儲け、竹寿丸と名付けられた男児は本寺へ預けられ長じて七世観浄の弟子と成戒名鏡玉を給わった。
 暦応四年十月(1341・11)に七世観浄が亡くなり同月に鏡玉が八世住持となり戒名を観鏡と改めて、後年上洛の途次行方不明となり入寂日及び享年とも不詳である。
 九世浄開上人の時代に諸国御礼修行の遊行上人が、永享十一年三月(1439・4)上旬に相州藤沢山清浄光寺で出家剃髪された長阿弥公(生没不詳、俗名世良田有親)及びその子徳阿弥公(生没不詳、俗名世良田親氏)を伴って三州へ入られ当山に逗留された。
 永享十二年六月二十五日(1440・8・2)に当山へ入後に七日間の御礼修行が行われた時、当山住持浄開上人の実兄である酒井五郎左衛門が法会の取持に参上して徳阿弥公の顔を見ると「この方は凡人に非ず訳ありの御方様也」と喜び「当家で御逗留を」と頼み込んだが遊行上人に中々許して貰えなかった。
 この時の徳阿弥公は御風気(風邪気味)で当山浄開上人が薬湯を献じ日々介抱しており、五郎左衛門は実弟の浄開上人と共に「徳阿弥公は御風気であり是非々々当家にご逗留を」と頻りに頼み、その志を察して遊行上人の許しを得ることができて一行は酒井五郎左衛門方へ移られた。
 その後長阿弥公が亡くなり、徳阿弥公は松平村の松平信重(生没不詳)の婿養子となって還俗し松平親氏を名乗り、この因縁を以て公が在世の内は折々当山を訪れられ、当山住持もまた松平家の屋敷へご機嫌伺いに度々訪れた。
 長禄三年春二月(1459・3)に親氏公が当山の本堂を再建され、その節位牌二本を当山へ納められたことに依り本堂を徳阿弥殿という。この二本の位牌のうち一本には裏書がなかったが、後の洪水でこれを流失した。
 永禄三年(1560)に駿府の今川義元公が桶狭間で敗死し、松平元康公(1543〜1616)が今川家から岡崎へ帰城された後のある日、名を改められた家康公は当山へ立ち寄って十世住持の惠開上人と取り敢えず歌を口遊さまれたりして終日遊び帰城された。
 惠開上人 君出天て 瑠璃の光や 日月の 十二因縁 めくみ開希て
     (君出でて 瑠璃の光や にちげつの 十二因縁 めぐみ開けて)
 家康公  登山耳 古しうち可けて ひと也春み 四海の浪を 足に婦まへ亭
     (當山に 腰打ち掛けて ひと休み 四海の浪を 足に踏まえて)
 この深い由緒及び惠開上人との親密故に家康公が岡崎在城の頃は折々当山を訪れて惠開上人と連歌の会を催し、殊に毎春正月の年始の祝儀の会には大浜村の称名寺某、渡村の善国寺安仙、矢矧村の光明寺惠開らが登城して賀し年始の連歌会が行われた。
 永禄四年十二月(1562・1)に当山は火災に遭いこの時惠開上人は入寂して、同九年四月(1566・5)に家康公が普請奉行に命じて再建せられた(誤って慶長元年四月(1596・5)としているものがあります)。
 惠開上人に入寂の時弟子の開亮は看主(有髪の住持)であったことから当山再建後に出寺し、その後の当山は無住となり臨阿坊という道心者が留守居として看主を勤めたという。
 当山は羽柴秀吉公(1537〜1598)から永楽銭七十余貫文及び境内六町四面を下賜されていたが、天正十八年十月(1590・11)に秀吉公の家臣田中吉政(1548〜1609)が岡崎城主に封じられるとこれらの殆どを取り上げられた。
 慶長八年九月(1603・10)に家康公から再建後間もない伏見城に召され、留守居の臨阿が当山名代として謁見し家康公から当山の様子や惠開上人のことなどを尋ねられた。
 臨阿はこれには答えられず留守居となった経緯や留守居中の凋落の経緯などを申上げると、家康公は臨阿を当山住僧として和尚号を下賜すると共に寺領八石を下賜される朱印状を頂戴して帰寺し十一世詮誉臨阿法子となった。
 十九世千観和尚の時代に庫裏及び鐘楼を建立した。
 慶應二年(1860)に復古して祷符を朝廷に献じ白銀を賜った。
 大正九年(1920)に時の住持が境内に馬頭観世音の銅像を建設した。」

 参河聰視録矢矧村記一には、次のように載せています。
 「鑑立山帝守院光明寺 時宗本寺 尾州宮熱田圓福寺(参河聰視録矢矧村記一)
 當寺由緒書に曰往昔光居智通上人の開基智通上人は大同四年癸丑十月十五日遷化從是三百十八年の間無住然るに人皇七十五代崇徳天皇の御宇大治三年戊申六月二十五日再び智達上人の開基なり其後寺中三ヶ院末寺二ヶ寺建立あり然るに矢矧川洪水の砌り堤馳込本尊堂宇寺院末寺等流失す漸當寺一院再建なり其後遊行上人諸国御札修行の時長阿弥公徳阿弥公御父子御同道にて當山へ御入御逗留被爲遊其後酒井五郎左衛門方へ御移被爲遊此五郎左衛門兼て住持浄開上人と入魂故今度御礼修行の法會中取持に罷赴居ける然処御両君の御尊顔を拝し是凡人にあらす訳あり御方様と心に悦び何卒御留り被爲遊候様に仕度の由遊行上人御願申上候得共中々御ゆるし無之故住持を頼みもろ共に是非々々御留り被爲遊候様に仕度殊に徳阿弥公には御風気に御座被成候何卒御逗留被爲遊候様にとしきりに御願申上上人其志を察し被遊然は此地に御留り可爲被遊の由演古在之御留り被爲遊候其後長阿彌公は御逝去被爲遊親氏公には松平村へ御移り右の御因縁を以御在世の内は折々當山に御駕被成住持も松平村御屋鋪へ御機嫌御窺に上り申候右由緒深き故大神君岡崎御在城の時折々御駕被成當住惠開と御連歌の會へ度々出席御免被成下殊に年始の御祝儀の御會には大濱松稱名寺某阿渡村善国寺安仙矢矧村光明寺惠開年始の御連歌御會に急度登城仕候又大神君駿府より天文十八年御帰城有て或時鷹野城成の砌り當寺へ御入在之候節當寺住僧惠開御出向不取敢口号なり」



ナビゲーション

バナースペース

矢作町界隈記

記事の無断転写等使用を禁じます。
管理人

inserted by FC2 system inserted by FC2 system