本文へスキップ

神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 矢作橋と親柱

 室町時代の連歌師飯尾宗祇(いのお/ いいお そうぎ、応永二十八年(1421)〜文亀二年(1502)七月三十日)の著書に「名所方角抄」がある。
 その「中目録」の「三河國分」の条に「矢矧里河あり八橋より五里なり此川に橋あり渡れば岡崎と云ふ宿あり名所にあらす」とあるが、矢矧橋のことを示す記録としてはこれが初見と思われる。
 因みに「伊勢物語第九段」に「三河の國、八橋といふ所にいたりぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つわたせるによりてなむ八橋といひける。」という件がある。
 この「蜘蛛手の橋」とは、池から「蜘蛛の足のように八方向へ」橋を架けることはあり得ないことからも解るように、下図の「蜘蛛の足の数と同じ八つで架かった橋」という意味である。

 日吉丸と蜂須賀小六正勝の出会いの場はまだ架かっていなかったと思われる矢矧橋をされているが、これは秀吉を英雄視してそれを面白く創作した読み本の「絵本太閤記」が基である。
 これは徳川十一代将軍家斉の時代の寛政九年(1797)に大坂の戯作者武内確斎及び挿絵師岡田玉山が組んで初編を刊行したものであるが、この時代には「岡崎」と言えば「矢矧橋」だった時代にも関わらず刊行者は「矢矧橋」ではなく「岡崎橋」としている。
 「日吉丸小六まみゆ」の件に、「ある夜属手数多引き具し岡崎橋を渡りけるに彼の日吉丸此の橋の上によく寝て前後も知らで有りけるを小六通りざまに日吉丸が頭を蹴りて行き過ぎる」とある。
 岡田玉山の挿絵も矢矧川や矢矧橋を思わせるものではなく、岡崎橋の右前方に見えるのは八町村の味噌蔵がある富豪の屋敷で、武内確斎が八町村の角久を想定して書いたことの情景を思わせるものである。
 依って、挿絵の岡崎橋と対岸の家居はそれぞれ別の所であるが、玉山はそれを合わせて描いたけだと思われる。


 下図のように岡崎橋の位置を想定すると挿絵の情景には合うが、東海道が菅生川の右岸側になっているので江戸時代の絵図である。


 天正年中(1573〜1591)には、八町村に渡場があって舟越えだったとする文献があるが、「渡場」は「ワタシバ」とも「トバ」とも読める。
 矢矧川左岸側に八町村の土場があり、右岸側は現在の矢作神社の近くに土場があった。
 仮名書きでは濁点を省略して「とは」や「トハ」と記したことから、後世に於いて「渡場」や「土場」の漢字が当てられたことから八町村の「土場」や「渡場」はどちらなのか定かでない。。

 天正十八年(1590)、家康が関東へ転封となり八月一日に江戸城へ入城した。
 岡崎城主には秀吉の家臣田中吉政が入封となり、吉政は城下の整備を行い、菅生川の左岸側を通っていた東海道を右岸側へ移した。
 慶長五年(1600)には矢矧橋の架橋に着手し、翌六年(1601)に転封となって、その後は同年に岡崎城主として入封した本多康重が引き継いで翌七年(1602)に完成させた。
 碧海郡渡村から額田郡八町村(当時の菅生川河口の右岸側)へ架けられた土橋で、中洲に橋台が据え付けられて翌七年に架橋が完成したことが、八町村の古老の記録によって確認されている。
 これにより、この矢矧橋が初代として起算される(初代の矢矧橋)。

 
元和九年(1623)六月二十五日の徳川二代将軍秀忠の上洛参内先立って土橋の架け替えが行われ、元和九年(1622)六月に完成した(二代の矢矧橋)。
 上洛参内を終えた秀忠は家光に将軍職を譲り、徳川三代将軍家光は同年七月二十三日に上洛参内した。

 寛永十一年(1634)七月十一日の徳川三代将軍家光の二度目の上洛参内に先立って矢矧橋架け替えが行われ、この時完成した矢矧橋は長さ二百八間(約378m)の板橋で、欄干に擬宝珠を備え、アーチ形の橋の中間頂部に橋番所が置かれた(三代・板橋では初代の矢矧橋)。

 矢矧橋は日本最長の大橋だったというが、これは江戸幕府が遠江国から東側の大きな川には固定した橋を架けることを禁じていたからであり、大井川や天竜川から比べれば矢矧川は小川ではないものの中級河川だったということである。
 慶安四年(1651)に板替えが行われた。
 寛文十年(1670)八月二十二日に左岸側の明大寺村で出火し、折からの強風により延焼して火は矢矧橋に燃え移り更に右岸側の人家にまで及んた。
 十月七日に假橋架橋の入札が行われて赤坂の九兵衛が落札し、五人の大工棟梁(連尺町の兵左衛門、清兵衛、伝馬町新十郎、平左衛門、長兵衛)が請け人となり、百七十五間の假橋が架けられた。
 延宝元年(1673)八月から作事奉行松平市右衛門、下奉行小栗藤左衛門、石原九衛門で普請にかかり、延宝二年(1674)十一月に幅四間、長さ百五十六間の橋に架け替えられた(四代・板橋では二代の矢矧橋)。
 これは檜と椹(さわら)を使用した板橋での二代目になるが、作事奉行松平市右衛門は、当時遠江国豊田郡(現磐田市)中泉陣屋の代官だった松平市右衛門正周と思われる。
 矢作神社にこの時の工事の様子を描いた大絵馬が奉納されている。
 元禄七年(1694)七月から元禄八年(1695)四月まで板替え修復が行われた。

 正徳三年(1713)八月から作事奉行向井兵庫、石原勘右衛門、手伝い豊後臼杵城主稲葉伊予守恒通で全て赤松を使用した板橋の架け替えが始まり、同五年(1715)三月に完成した(五代・板橋では三代の矢矧橋)。
 享保十年(1725)に板替えが行われた。
 享保十八年(1733)に修復が行われた。
 寛保元年(1741)に修復が行われ、この時、片側の幅一間が縦板に替えられた。
 寛保三年(1743)に修復が行われ、すべて縦板(もみいた)に替えられた。

 延享二年(1745)十月から作事奉行細井飛騨守安定、大工京橋加藤喜右衛門で架け替えが始まり、翌三年(1746)三月に完成した(六代・板橋では四代の矢矧橋)。
 この時の大工加藤喜右衛門その他の姓名を記した新架橋の設計図を載せた額が矢作神社に奉納されている。

 宝暦六年(1756)九月十六日、暴風雨により近畿及び東海の広範囲で大洪水が起こり、六代目矢矧橋は十年半で流失した。
  江戸幕府は宝暦五年の大凶作などにより財政が逼迫しており矢矧橋の架け替えを行う見通しが立たなかったことから、上流で大きなS字上になっていてその下流側で流れが狭隘になっている場所(現在の矢作神社の北東辺り)に、渇水期の初冬(十月)から假橋を架けることにした。
 それから約五年後の宝暦十一年(1761)に矢矧橋の架橋が行われることになり、これまでの掛け替えでは上流側に架けてから前の橋を取り壊したが、既に假橋が架けてあったことや財政難から残っていた前の矢矧橋の橋脚がそのまま利用された。

 八月から作事奉行山名伊豆守、目付松田彦兵衛、下奉行宮重文五郎、神谷庄右衛門、手伝い阿部飛騨守正允、大工頭千種庄兵衛で工事が始められ、翌十二年(1762)四月に七代目矢矧橋が完成した(七代・板橋では五代の矢矧橋)。
 假橋は橋桁から上の部分だけが取り外されて放置され、八代目及び九代目でも假橋及び本橋の前の橋脚が使えるものをそのまま使用する方法で行われた。

 東國名勝志に「東国名勝志第四巻 岡崎矢矧乃橋 宝暦十二年春正月、鳥飼酔雅子」と記された月岡丹下の絵が載っている。
 宝暦十二年一月に矢矧橋の右岸側から見た岡崎城及び山は、左前方に見えなければないが、月岡丹下の絵では右前方に見える。
 然も橋脚が少な過ぎることから流路が狭隘になっていた上流側に設けられた仮橋であることが解る。


 このページに度々貴重な画像をご提供くださっている矢作町三区の宮川氏から、またこの仮橋の橋脚の残骸と思われるものの画像(平成二十七年(2015)秋撮影)をご提供いただき当サイトへの掲載も承諾戴いた。

 私が矢作町に在住していた頃の河床は現在よりも高かったようで、夏には現地によく行っていたが見たことがなかった。
 戴いた画像では水の流れが右岸寄りであるが、令和二年(2020)五月二十四日に確認に行った時は水の流れが左岸寄りで橋脚基部の残骸を見つけることはできなかった。
 下の画像はその時に左岸側から撮影したものに橋脚基部の残骸の推定位置を合成したものである。
 明和二年(1765)十一月に修復工事が行われた。
 明和八年(1771)五月から八月まで、用材を栂に取り換え修復が行われた。
 安永四年(1775)三月から七月まで、用材を松に取り換え修復が行われた。

 安永九年(1780)十一月から作事奉行室賀山城守正之、手伝い相馬因幡守怒胤で架け替えが始まり、天明元年(1781)六月に完成した(八代・板橋では六代の矢矧橋)。
 寛政元年(1789)六月に洪水による損傷があり、翌年(1790)二月及び三月に修繕が行われた。
 寛政五年(1793)四月に敷板の修理が行われた。

 寛政十年(1798)八月から作事奉行三上因幡守季寛で架け替えが始まり、翌年(1799)二月には四間三尺九寸、長さ百五十一間五尺一寸の橋が完成した(九代・板橋では七代の矢矧橋)。
 文化十三年(1816)八月四日の洪水により四十間余が落橋し修復した。
 「参河名勝志」に石川貫河堂(1780~1859)が描いた「矢矧橋圖」が載っているが、岡崎城は左前方に見える。
 彼が若くしてこの絵を書いたとしても、この時の橋以後と思われる。

 文化十四年(1817)四月から作事奉行村垣淡路守で架け替えが始まり、翌年(1818)に完成した(十代・板橋では八代の矢矧橋)。
 文政六年(1823)八月、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796〜1866)が来日し、長崎出島のオランダ商館医となった。
 文政九年(1826)二月十七日に京都を出発したオランダ商館長(三月二十八日に十一代将軍家斉に謁見)の江戸参府に随行し、二十二日に長さ百五十数間の矢矧橋をを渡ったとされている。
 四月十二日に江戸を出発して帰路につき、二十一日に矢矧橋を渡ったものと思われるがこの日は豪雨だったようである。
 シーボルトはこの橋を測量して川原慶賀に図面及び矢矧橋圖を描かせたとされているが、シーボルト自身が三河に滞在した様子は窺えない。

 文政十一年(1828)七月の洪水により三十間余が落橋し修復した。
 令和元年(2019)、矢作町三区の宮川氏がシーボルトの残した資料を基に二月から矢矧橋の二百分の一の模型作製に着手したとの情報を得ていたが、十月にこれが完成したとの情報を得て画像をご提供いただき、ここに掲載することの承諾も得た。
 ただし、青色にした部分は勝手に修正したもので、何れの画像も転載を避けるため画質を落としている。






 天保三年(1832)七月に御所への八朔御馬進献公式派遣団が派遣され、これに同行した歌川広重(1797〜1858)は翌年(1833)に東海道五十三次の絵を描いた。
 三十八次の宿場岡崎宿の絵は京へ向かう一行が矢矧橋を渡っているものとするものがあるが、一行は東へ向かっているので帰路の八月十日前後のことと思われる。
 また、岡崎城は当然矢矧橋の左前方に見える。
 シーボルト及び歌川広重が渡った矢矧橋は十代目の橋ということになり、この両人及び石川貫河堂が描いた矢矧橋はいずれも同じものを見て描いたものと思われる。

 天保九年(1838)から作事奉行梶野土佐守良材で架け替えが始まり、翌年(1839)に架け替え工事が完了した(十一代・板橋では九代の矢矧橋)。
 岡崎城主は本多忠民の時で、架け替え奉行は梶野土佐守良材であったが、工事期間の月日は不明である。

 嘉永三年(1850)七月二十二日及び八月二十日の出水で右岸側三十間余が落橋して修繕が行われた。
 嘉永七年(1854)十一月四日に起こった東海地震で橋脚が少し傾いた。
 翌安政二年(1855)七月二十九日の洪水で二ヶ所を大きく流失した。
 これ以後、江戸時代には矢作橋が架けられることはなく、慶応元年に家茂が上洛した際も渡船によるものであった。
 明治元年(1868)の天皇御通輦(つうれん)の際は川舟を上流に向けて並べ、その上に板を敷いて砂を被せ青竹で手摺を設けたものであった。
 明治四年(1871)三月、安政時代に流失してから十六年振りに假橋が完成し、二十日が渡り初めの日であった。

 明治九年(1876)、太政官達第六十号(道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム)」により國道、縣道及び里道が指定された。

 明治十年(1877)一月、幅三間、長さ百五十間の矢作橋が完成し、親柱は初めて石製のものになった(十二代・板橋では十代の矢作橋
 下図の右岸側親柱の「矢」の文字が見えるが、この親柱は碧南市の旧大浜警察署保存建物の東側庭園に保存されている。


 まるかど日記(2008/09/08)から転写した画像とこれを基にした修復画像

 平成二十一年(2009)一月に知人からブログの記事をコピーしたものを提供され、これに関する情報を求められた。
 フェンス脇に横たわっているものは明らかに矢作橋の親柱であり、漢字表記の親柱を見たのはこれが初めてのことであり驚いた。
 この記事の出典元である「まるかど日記(2008/09/08)」へ辿り着くことができた。

 これまでに確認していた親柱の形状などから類推して明治十年竣工時のものであることは判り、貴重な発見物であることから町内に現存する親柱ととも然るべき場所に集めて設置保存することの善処依頼をしたが、岡崎市側で対応することはなかった。
 現物がある碧南市の文化財課担当者から問い合わせがあり放置場所を知らせた処、直ちに現地へ赴いて現存することを確認し、即保存設置が行われた。

 追記:碧南市教育委員会文化財課の担当者からの問い合わせ
 平成三十年(2018)十二月四日、碧南市教育委員会文化財課のM氏から、前記の親柱について掲載しているサイトの記事について問い合わせのメールがあった。
 後日、碧南市錦町一丁目七番地 旧大浜警察署保存建物の東側庭園南寄りに保存設置した旨のメールを戴き、これを撮影してきたのが下の画像である。
 その頭頂部の造りは前記の「紫石傳説地」に使用されている脇柱だったものと同様であった。

 追記:矢作橋の袂矢作町西林寺のM氏からの問い合わせと資料のご提供
 平成三十一年(2019)二月二十日、地元矢作町西林寺のM氏から、次の画像を添付したメールを戴いた。
 矢作橋の親柱は「やはぎばし」と記されたものが右岸側に保存されていることや写真でも確認できたことから、「矢作橋」と記されたものは左岸側に設置されていたものと推測していたが、M氏から提供された資料により私の推測は一部誤っていたが判明した。
 下の画像は「やはぎの古事の図」(出典:国立国会図書館デジタルコレクション/参陽商工便覧/川崎源太郎著)である。
 日吉丸の時代にも矢矧橋は時々あったする史料があるが、土橋であった筈である。
 下図は、矢矧橋と記した親柱がある板橋で岡崎公園(岡崎城)が右前方に見える創作図で明治の時代に描かれたものである。


 令和元年(2019)五月七日、矢作町西林寺のM氏から、再度「新しい資料を見つけた」ということで明確な画像をご提供いただいた。
 下の画像(「ふるさとの想い出写真集 明治 大正 昭和 岡崎」岡崎地方史研究会/編)は、対岸に山が見えることから右岸側からの眺望であり、下流側に「矢作橋」及び上流側に「明治十年一月」の親柱があることが明確に解る。


 令和元年(2019)九月二十九日、矢作神社の親柱の上流側のもの(400W×394D、地上約1,350H)が矢作町二区の公民館敷地内にあるのとのメールを戴いた。

 追記:大阪阿倍野区のT氏(矢作町出身)からご提供いただいた画像
 令和元年六月十一日、知人ととある写真展の拝観に訪れた時に声を掛けて下さった方と話をしているうちに共通の知人のご家族であることが解り、その時に話題となった矢作橋親柱の写真を撮影して送っていただいた。






「紫石傳説地及び兼高長者泉水」の石柱
 矢作神社の南西約三百米にある石田茂作建立の「紫石傳説地」の石柱(340W×340D、地上約1,300H)は、明治十年(1877)一月竣工の矢作橋親柱の脇柱を使用して建立したものとされている。
 この石柱には下の画像のように、左面に「紫石傳説地」と刻されその背面が右側の画像で、右面に「兼高長者泉水」と刻されその背面が左側の画像である。
 「兼高長者泉水」と刻された背面には「昭和四十三年正月 石田茂作書」とある。


全 景

 橋の銘板の設置
 東海道は江戸時代から江戸日本橋を起点とし、京都から京街道を経て大阪(大坂)に至るまでで、現在の国道一号線とほぼ同じであった。
 明治十八年(1885)二月二十四日、内務省告示第六号(國道表)により、國道路線に番号を付けられ、当時の國道二號が現在の国道一号線に当たる。
 この時の告示で橋の親柱は、道路の起点側に「漢字表記の親柱」を建て、その反対側に「ひらがな標記の親柱」を建てるように明記されたものと思われる。
 依って、明治十年(1877)一月竣工の矢作橋の親柱は矢作町側に漢字表記のものが建てられており、明治二十三年(1890)八月竣工以後の矢作橋の親柱は起点(日本橋)側に漢字表記のものが建てられるようになった。
 また、縦書きは右上から始まり、横書きは左上から始まるので、橋名及び竣工日の親柱の位置は変わることになる。
横書きの親柱の配置例

 明治二十三年(1890)八月、長さ百五十間、幅三間の十三代目矢作橋が竣工した。


 
明治二十三年(1890)八月竣工の矢作橋の位置


 平成時代に架け替えられた矢作橋の右岸下流側約二十米位離れた所に樹木(榎か?)が一本ある。
 この樹木のある所が明治二十三年(1890)八月竣工の橋の袂近くで、堤防の嵩上げ時に伐採して埋め立てられたものが芽を出して成長した「ど根性樹木」である。

 明治十年作成の矢作橋親柱の払い下げ
 明治二十三年(1890)八月に十三代目の矢作橋が完成し、これにより先代の親柱などの石柱が払い下げられることになって競売に架けられた。
 明治十年一月竣工の橋の西側の麓に当たるのは東之切組(現矢作町一区)だったが、「往昔矢矧橋の修造の節は橋に用いられ朽ちた古材を積んで置くことが古例になっていた所があり、後年此処へ神祠を建てて柱朽天神と崇め奉るようになったという」と伝えられる所は東中之切組(現矢作町二区)である。
 神仏判然令により柱朽天神は柱口社と改められ
東中之切組の氏神である八幡社に合祀された。
 この柱口社の由縁がある東中之切組は親柱一対を落札する準備をしていたが、最初の下流側の柱の入札時に碧南の商人がいきなり高値を付け、一対を落札する算段をしていた東中切組は準備金が不足することになった。
 上流側のものまで奪われてはならじと一対の落札準備金を投じる覚悟で件の商人と競い合い何とか落札することができた(古老伝)。
 この親柱は今ではその経緯を知る者もなく、存在さえも忘れられて矢作町二区の公民館の敷地内にひっそりと保存されている。
 碧南の商人は、明治の初め頃に「みよし灯籠」を発案して名を馳せることになった岡崎町の石工花澤屋平吉に落札した親柱を預け、これに灯袋を設けて貰ってから自宅の庭園に設置した。

 みよし灯籠とは
 文政十三年(1830)に三河国加茂郡三吉村で生まれた庄三(幼名不詳)は子供の頃から悪ガキで信濃国のお寺へ小僧として預けられた。
 しかし、お寺での躾も空しく素行の悪さは増すばかりで終にお寺から追放されて彷徨いながら東へ向かい武蔵国桶川宿にあるお寺へ辿り着いたが、ここでも放蕩して近くの米問屋の娘と仲良くなり身籠らせたことからこのお寺からも追放された。
 今度は故郷へ向かって彷徨いながら三河国岡崎町に住み着いて、伝馬に書画骨董屋を始めることになり屋号を出生地に因み「美与之屋」として自らを「美与之庄三」と呼び記した。
 商売に成功して元来の侠気と派手好きから三十代の半ば過ぎには岡崎町の顔役となっていた。
 明治元年(1868)三月二十八日に神仏判然令が発せられたことから、大樹寺の境内にあった社の神域を囲っていた石柱が払い下げられることになり、これまで極道をして来たこれを買い請けて道標を設置することを計画し、その刻字と設置を石工花澤屋三代目平吉に委託した。
 これを請けた平吉は、頭部に灯袋を設けて笠を載せ、石柱の背面には庄三自筆の「みよし」の文字を刻むことを考案した。
 街道の主な辻に設置されたこの道標は「みよし灯籠」と称されて邸宅の庭園に設置されるようになり瞬く間に各地に知れ渡ることになった。
 出典元:岡崎地方史研究会の研究紀要第三十七号「みよし灯籠について(後藤公子・山田伸子共著)」。
 この「みよし灯籠」は、現在では全国に伝わっているが、中には「みよし」の書体が全く異なる模造品が設置されている所もあるが。本来は「みよし」の書体を含めてのものである。
 明治四年(1871)の戸籍法制定により、庄三は氏名を「松山庄兵衛」として届け出、明治十五年(1882)二月二十五日に亡くなって、満性寺で葬儀が行われ同寺の墓地に葬られたが、同年十月に菅生川の堤防決壊があり満性寺の墓地が破壊された。
 明治十七年(1554)に菅生川堤防の改修が竣工し、この時に松山家の墓地部分は堤防築造区域に含まれ、同寺の墓地が狭小になったこともあって龍海院に新たな墓地が設けられた。
 松山庄兵衛の曾孫に脚本家で映画監督であった松山善三がおり、その妻が女優の高峰秀子である。

 明治四十五年(1912)の大洪水により、明治二十三年(1890)に架けられていた矢作橋が流出し、その約九十六米上流に鉄骨造りの矢作橋が架けられることになって、明治四十五年に着工され、大正二年(1913)九月に長さ百五十間で竣功した(十四代)。
 この矢作橋は碧海郡矢作町を通る東海道と直結し、矢矧橋から八帖橋までが一直線となるように架橋された。

 右岸側親柱の「矢」の文字が見える。


 明治二十三年(1890)以後の矢作橋右岸側の親柱は、矢作神社の境内及びその近くの矢作川堤防上に保存(放置に近い状態)されている。
 下の画像は左側から、明治二十三年八月竣工の右岸上流側の親柱で矢作神社境内に保存されているもの、次は右岸下流側の親柱で所在不明、その次は大正二年九月竣工の右岸上流側の親柱で矢作神社境内からの道を登った所の堤防上に保存されているもの、右端は右岸下流側の親柱で矢作神社の境内に保存されているものである。

 明治二十三年八月の親柱の背面には「明治四十年九月桁上修繕」と刻されている。

 昭和十九年(1944)十二月七日午後一時三十六分に熊野灘を震源地とするMJ8.0の東南海地震が発生した。
 その三十七日後の昭和二十年(1945)一月十三日午前三時三十八分には三河湾を震源地とするMJ7.1の三河地震が発生した。
 この時、大正二年(191)九月竣工の矢作橋が八帖町側で崩落し、この崩落した部分は地元の大工によって木造で仮修復された。

 「ウィキペディア フリー百科事典 矢作橋」に、次の「19132年(大正2年)架設の矢作橋」及び「1911年(明治44年)の画像があるが、これは同じ明治二十三年八月竣工の十三代の画像である。


 昭和二十二年(1947)に十四代目の下流側に架橋工事を着工し、昭和二十六年(1951)に竣功した(十五代)。
 下図は、左岸側から見た前矢作橋とその約二十五米下流側に完成直後の矢作橋である。
 

 昭和四十年(1965)頃から、山下清(1922〜1971)は東海道五十三次の制作を志して東京から京都までのスケッチ旅行に出掛けている。
 その時の絵の一つに撤去された大正時代の矢作橋の橋脚基礎部分が残っている様子が描かれている。
 実際には一部しか残っていなかったので、岡崎城や八丁味噌の角久の味噌蔵の位置などとともに誇張創作して描かれている。

 解体が近い頃の昭和の矢作橋(大正二年竣工の橋から約二十五米下流側)の右岸側の様子。


 下流側の親柱には「昭和三十五年三月改築」と標記されている。

 平成十八年(2006)から下流側に新しい矢作橋の架け替え工事が着工された。

 平成二十二年(2010)十一月三日の下り線が開通(下図左側・2012/12/29撮影)に先立ち、親子三代の家族による渡り初め式が行われる予定であったが、台風のため中止となった(十六代)。
 平成二十三年(2011)三月から全面開通となり、引き続き旧矢作橋の取り壊し工事が進められた。


 開通直後の新しい矢作橋の上流側に、解体前の昭和の矢作橋橋脚が見える。



 江戸時代からの歴代矢作橋架け替えのまとめ
 江戸時代初代  慶長七年(1602)、土橋を架橋(城主本多豊後守康紀)。
 二代      元和九年(1623)六月、土橋で架け替え(城主本多豊後守康紀)。
 三代(板橋初代)寛永十一年(1634)七月、板橋に架け替え。
         寛文十年(1670)八月二十二日に焼落し、百七十五間の假橋を架橋。
 四代(二代)  延宝二年(1674)十一月、架け替え。
 五代(三代)  正徳五年(1715)三月、架け替え(城主水野和泉守忠之)。
 六代(四代)  延享三年(1746)三月、架け替え(城主水野監物忠辰)。
 七代(五代)  宝暦十二年(1762)四月、架け替え(城主水野和泉守忠任)。
 八代(六代)  天明元年(1781)六月、架け替え(城主本多中務大輔忠典)。
         寛政元年(1789)六月の洪水により損傷し翌年(1790)に修繕。
 九代(七代)  寛政十一年(1799)二月、架け替え(城主本多中務大輔忠顯)。
         文化十三年(1816)八月四日の洪水により四十間余が落橋し修復。
 十代(八代)  文政元年(1818)九月二十四日、架け替え(城主本多中務大輔忠顯)。
         文政十一年(1828)七月の洪水により三十間余が落橋して修復。
 十一代(九代) 天保十年(1839)、架け替え(城主本多中務大輔忠民)。
         安政二年(1855)七月二十九日の洪水により二ヶ所を大きく流失。
         明治四年(1871)三月二十日、十六年振りに假橋が完成。
 十二代(十代) 明治十年(1877)一月、架け替え。
 十三代(十一代)明治二十三年(1890)八月、架け替え。
 十四代(十二代)大正二年(1913)九月、架け替え。
 十五代(十三代)昭和二十六年(1951)、架け替え。
 十六代(十四代)平成二十二年(2010)十一月三日、下り線が開通。
         平成二十三年(2011)三月、全面開通。


ナビゲーション

バナースペース

矢作町界隈記

記事の無断転写等使用を禁じます。
管理人

inserted by FC2 system

johosi_yahagikan.htmlへのリンク

inserted by FC2 system