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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 矢作町の変遷

 江戸時代の三河国矢作の東海道沿いには、西から上矢作村と下矢作村がありました。

 上矢作村は加茂大明神と弥五郎殿の2つの神社(かみやしろ)を有し、下矢作村は八幡大明神と神明社の2つの神社を有していました。

 加茂大明神の氏子区域を上之切組とし、弥五郎殿の氏子区域を上中之切組、八幡大明神氏子区域を下中之切組及び神明社の氏子区域を下之切組と称しました。

 各組は山車を有し、上之切組地内に在った牛頭天王の大祭の日には、各組の山車が牛頭天王の境内に集まりました。

 上矢作村に在った牛頭天王は、度々起こる矢作川の洪水による流失を避けて下中之切組地内に在った宝珠稲荷の境内へ合併されました。

 下之切組の神明社は、寛政年間(1789〜1801)を過ぎた後のいずれかの年の矢作川洪水によって流失し、その後の再建に際し社壇を高くして八剱大明神を勧請し、本殿を当時の宝飯郡能見村(現岡崎市元能見町)の神明社へ向けました。

 慶応四年三月二十八日(1868・04・20)、維新政府は神仏混淆を禁止し寺院と神社を分離するように命じる神仏判然令を出しました。

 明治二年六月十九日(1869・07・27)、第六代三河岡崎藩主本多忠直が版籍奉還を行ない岡崎藩知事に任じられました。

 明治三年十月二十八日、大小神社取調べに関する十六の調査項目を十二月までに提出するようにとする太政官布告があり、その後も毎年神社調査が行われて短期間で調査書の提出が求められました。

 明治四年四月四日(1871・05・22)、明治政府は全国一律の戸籍を作るための準備として戸籍法(太政官布第百七十)を制定し、編製の単位として国の下に数字で行政区域を区分けした区(三河国碧海郡は三河国第二区)を置きました。

 明治四年七月十四日(1871・08・29)、明治政府は在東京の藩知事を皇居に集めて廃藩置県を命じ、藩をそのまま県に置き換えて藩知事を県知事としました。

 即ち三河国は、田原県、豊橋県、半原県、西大平県、岡崎県、挙母県、西尾県、西端県、刈谷県及び重原県の十県となりました。

 この廃藩置県では、全国の藩は大小の別なく全部県となったのでその数は全国で三府三百二県に及びました。

 その後十万石以上を標準として第一次府県統合が進められ、明治四年十一月十五日(1871・12・26)に三河国の田原県、豊橋県、半原県、西大平県、岡崎県、挙母県、西尾県、西端県、刈谷県及び重原県に名古屋県知多郡を移管されて統合された額田県が発足しました。

 同月二十二日(1872・01・02)には犬山県が名古屋県に統合されるなどして、第一次府県統合により全国三府七十二県と四分の一以下になりました。

 これにより、三河国額田県の行政区域は碧海、幡豆、額田、加茂、設楽、宝飯、渥美、八名及び知多の九郡となり、額田郡岡崎町康生(現在の岡崎市康生町)の岡崎城に県庁が置かれました。

 明治五年一月(1872・02)、額田県碧海郡下矢作村及び上矢作村が東矢作村及び西矢作村に改称され、戸籍編製単位の行政区域は額田県第二区第五小区に属しました。

 明治五年一月五日(1872・02・13)、知多郡横須賀村に額田県支所が置かれました。

 明治五年四月二日(1872・05・08)、名古屋県が県庁所在地愛知郡の名に因んで愛知県と改称されました。

 明治五年四月九日(1872・5・15)、江戸時代からの大庄屋、庄屋、年寄、名主などの町村役人名を廃止し、代わりに華族や士族も含めて全国一律に戸長及び副戸長を置きました。

 明治五年十月十日(1872・11・10)、戸籍編製単位の行政区域の区を大区と改称し、その下に旧来の町村を幾つかまとめた小区を置いて数字で行政区域を表す大区小区制を施行し、矢作地区の大部は額田県第二大区第五小区に属しました。。

 この大区には区長及び副区長を置き、小区には戸長及び副戸長を置いて、江戸時代の町村役人(大庄屋、庄屋、年寄、名主など)の経験者を任命しました。

 明治五年十一月二十七日(1872・12・27)、額田県が愛知県に編入されて新しい愛知県は十五の大区に分けられ、額田県第二大区第五小区に属した東西の矢作村は愛知県第九大区第五小区に属しました。

 この頃の碧海郡内の神社調査に際し、上矢作村西之切組は旧加茂大明神の社名を加茂社とし、通称旧下加茂大明神の社名を竊樹社として提出しました。

 同村上中之切組は旧弥五郎殿を弥五騰社とし、西矢作村東中之切組は旧八幡大明神を八幡社とし、同村東之切組は旧八劔大明神を八劔社として提出しました。

 また、西矢作村東中之切組地内の旧牛頭天王は鎮座地の地名を以て社名を矢作神社として提出しました。

 明治五年(1872)、従来の太陰太陽暦を廃して翌年から太陽暦を採用することが布告されて、グレゴリオ暦1873年1月1日に当たる明治五年十二月三日を明治六年(1873)一月一日とすることになりました。

 明治十一年(1878)七月二十二日、三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)(太政官布告第十七号)の制定により、大区小区制は廃止となりました。

 各町村の名称区域を定めて新たに町村に戸長役場が設けられ、区役場は郡役所と改称されて、碧海郡のは郡役所は知立村に置かれました。

 明治十一年(1878)十二月二十八日、東矢作村及び西矢作村が合併して矢作村に改められました。

 明治十一年(1878)十二月二十八日、八村が新堀村へ合併されました(明治二十二年の合併で中郷村となります)。

 明治十一年(1878)十二月二十八日、東渡村及び西渡村を合併して渡村に改められました(明治二十二年の合併で本郷村となります)。

 明治十一年(1878)十二月二十八日、東大友村と西大友村が合併して大友村に改められました(明治十八年に再度東大友村と西大友村となります)。

 明治十七年(1884)、東本郷村を分けて、北本郷村が発足しました(両村とも明治二十二年の合併で本郷村となります)。

 明治十七年(1884)、西野新田村が北野村へ合併されました(明治二十二年の合併で長瀬村となります)。

 明治十七年(1884)、大友村が分離して、東大友村と西大友村になりました(明治二十二年の合併で長瀬村となります)。

 明治十七年(1884)七月、三新法が廃されて郡内を組に分け、その役場行政区域とし新たな戸長が置かれました。

 明治十七年(1884)八月一日、組制により、矢作村、東本郷村、西本郷村、北本郷村及び暮戸村の五ヶ村を第三十二組とし、矢作村字金谷(現在の消防団消防ポンプ車庫の辺り)に第三十二組連合戸長役場が置かれ、村役の庄屋が戸長に改められました。

 明治十八年(1885)三月三十日、各組の連合戸長役場の名称を改めて各村の戸長役場と称することになり、碧海郡の各組連合戸長役場は明治十八年(1885)五月一日に村戸長役場に改称されました。

 明治二十一年(1888)四月、市町村制の公布があり、愛知県は翌年(1889)十月一日からこれが施行されて統廃合が行われた各町村は自治団体として組織され、各町村に字惣代を置いてその字と町村との連絡機関とされました。

 明治二十二年(1889)の府県数は三府四十三県(北海道を除く)となりましたが、これには明治四年から進められていた県の統合がその後も毎年行われて明治十四年(1881)まで続き今度は面積が大き過ぎるための不満が噴出したりして更に統合が行われた経緯があります。

 因みに、東京都の発足は昭和十八年1943)で、北海道の発足は昭和二十一年(1946)のことでした。

 明治二十二年(1889)十月一日、村戸長役場は町村役場に改称され、戸長は町村長に改められました。

 明治二十二年(1889)十月一日、西牧内村、池端村、桑子村、小望村、坂戸村、島村、新堀村、館出村及び富永村の九ヶ村を合併して中郷村に改められ、旧村名は大字となりました(明治三十九年に矢作町へ編入となります)。

 明治二十二年(1889)十月一日、東本郷村、西本郷村、北本郷村、暮戸村、筒針村及び渡村の六ヶ村を合併して本郷村に改められ、旧村名は大字となりました(明治三十九年に矢作町へ編入となります)。

 明治二十二年(1889)十月一日、東大友村、西大友村、中園村、舳越村、北野村、森越村及び橋目村の七ヶ村を合併して長瀬村に改められ、旧村名は大字となりました(明治三十九年に矢作町へ編入となります)。

 明治二十二年(1889)十月一日、宇頭村、宇頭茶屋村、尾崎村、小針村及び柿崎村の五ヶ村を合併して志貴村に改められ、旧村名は大字となりました(明治三十九年に矢作町へ編入となります)。

 明治二十二年(1889)十月一日、河野村、上佐々木村、下佐々木村、東牧内村、川島村及び村高村の六ヶ村を合併して藤野村に改められ、旧村名は大字となりました。

 明治二十二年(1889)十月一日、町村制施行に伴い、額田郡三十町が合併して岡崎町が発足しました。

 明治二十四年(1891)八月八日、藤野村から大字河野、大字上佐々木、大字下佐々木及び大字東牧内の四ヶ大字を分けて志賀須香村が発足しました(明治三十九年に矢作町へ編入となります)。

 明治二十六年(1893)二月十九日、矢作村が町制を施行し矢作町となりました(大正版矢作町誌に明治二十七年(1894)二月十九日とあるのは誤りです)。

 明治三十四年(1902)四月四日、本郷村から大字筒針及び大字渡を分けて渡村が発足しました(明治三十九年に矢作町へ編入となります)。

 明治三十九年(1906)五月一日、町村制の改正により全国的に大規模な町村合併が行われ、中郷村、本郷村、渡村、長瀬村、志貴村及び志賀須香村の六ヶ村が矢作町へ合併して旧村名は大字名となり、合併に伴う矢作町役場を大字矢作字金谷九番十番(現在の消防団消防ポンプ車庫の辺り)に置きました。

 この明治三十九年(1906)の町村制改正では各部落即ち大字ごと区長を設けることになり、矢作町は明治二十二年(1889)十月一日の町村制施行に伴う合併以前の各大字三十二を三十九に分けて区番を付与し、各区に自治会代表の区長を置く施策を施行しました。

 区番の付与は次通りです。
 矢作町第一区=大字矢作東之
 矢作町第二区=大字矢作東中之切
 矢作町第三区=大字矢作西中之切
 矢作町第四区=大字矢作西之切
 矢作町第五区=旧長瀬村大字中園
 矢作町第六区=旧長瀬村大字舳越
 矢作町第七区=旧長瀬村大字森越
 矢作町第八区=旧長瀬村大字北野
 矢作町第九区=旧長瀬村大字橋目
 矢作町第十区=旧長瀬村大字橋目
 矢作町第十一区=旧長瀬村大字橋目
 矢作町第十二区=旧長瀬村大字東大友
 矢作町第十三区=旧長瀬村大字西大友
 矢作町第十四区=旧志貴村大字小針
 矢作町第十五区=旧志貴村大字柿崎
 矢作町第十六区=旧志貴村大字宇頭茶屋
 矢作町第十七区=旧志貴村大字尾崎
 矢作町第十八区=旧志貴村大字宇頭
 矢作町第十九区=旧本郷村大字暮戸
 矢作町第二十区=旧本郷村大字西本郷
 矢作町第二十一区=旧本郷村大字東本郷
 矢作町第二十二区=旧本郷村大字北本郷
 矢作町第二十三区=旧渡村大字筒針
 矢作町第二十四区=旧渡村大字渡
 矢作町第二十五区=旧渡村大字渡
 矢作町第二十六区=旧志貴須香村大字東牧内
 矢作町第二十七区=旧志貴須香村大字上佐々木
 矢作町第二十八区=旧志貴須香村大字下上佐々木
 矢作町第二十九区=旧志貴須香村大字河野
 矢作町第三十区=旧中郷村大字坂戸
 矢作町第三十一区=旧中郷村大字島(東)
 矢作町第三十二区=旧中郷村大字島(西)
 矢作町第三十三区=旧中郷村大字館出
 矢作町第三十四区=旧中郷村大字小望
 矢作町第三十五区=旧中郷村大字池端
 矢作町第三十六区=旧中郷村大字西牧内
 矢作町第三十七区=旧中郷村大字桑子
 矢作町第三十八区=旧中郷村大字富永
 矢作町第三十九区=旧中郷村大字新堀

 明治四十年(1907)十月三十一日、矢作町役場を大字矢作字馬乗百八番の二及びその外二筆へ移転しました。

 大正五年丙辰(1916)七月一日、岡崎町は県下三番目(全国六十七番目)に市制を施行しました。

 大正十五年(1926)七月一日、郡役所は廃止されました。

 昭和十年(1935)、矢作町の南西部の田地約七万坪が東洋紡績株式会社の工場用地として売却され埋め立て工事が始まりました。







 昭和十七年(1942)七月一日、県の出先機関として地方事務所を設置することになり、碧海郡を管轄区域として、碧海地方事務所が安城町に置かれました。

 昭和十九年(1944)十二月七日午後一時半過ぎに昭和東南海地震が発生し、翌月(昭和二十年(1945)一月)十三日午前三時半過ぎに三河地震が発生しました。

 昭和二十一年、東洋紡績株式会社の工場建設(昭和十年に用地を買収して埋め立て工事が終了した後に放置されていた)が中止されて東洋紡地区と称されていた用地を矢作農業会が買戻し住宅地として分譲を始めました。

 昭和二十二年四月一日、総司令部の強い指示により地方自治法を改正して明治二十一年に組織して以来続いていた町村自治団体の区長制度を廃止しました。

 これにより矢作町は区番制を廃止し臨時的措置として役場職員がその役務を代行していましたが、やがて全国的に各町村の地元民に大字連絡員や大字惣代の名で連絡員を置くようになりました。

 戦前に於いては大字矢作の地区名の呼称が併称されることは少なかったようですが、これ以後の大字矢作の地元民は一区、二区、三区又は四区という呼称及び東之切、東中之切、西中之切又は西之切という呼称が併称されることが多くなりました。

 昭和二十三年二月、改札法の改正により自治体警察及び国家警察制度が定められて、人口が五千人以上の市町村は自治体警察を置くことができたことから、この後に矢作町は字尊所に矢作警察署を設置しました。

 昭和二十四年、矢作町大字矢作西之切(四区)では名古屋鉄道の線路から南側(第二十一組)の人口の増加が顕著だったことから矢作町役場に対して線路を境にして分割する要望を提出し、矢作町役場ではこの問題を受けて検討し、東之切から西之切までの呼称を廃止して大字矢作一区から同四区までに改称するとともに四区を分割して五区を発足させる議案を矢作町議会に提議しました。

 矢作町議会では、昭和二十二年に町村自治団体の区長制度を廃止されて以来各町村に連絡員を置くことは法的には認められていないことを理由にこの問題は議決に至らず、然もそれから間もない昭和二十五年三月に矢作町役場を火災で焼失してしまいました。

 字尊所に在った矢作町警察署の建物の一部を借りて町務の復興に全力を注いでいる最中に、自治体警察である矢作町警察署の存続についての住民投票を行わなければならなくなりその結果は廃止が多数を占めました。

 昭和二十六年七月に矢作町警察署は廃止となって岡崎市警察署へ統合され、その跡地はすべて矢作町役場が使用できるようになりました。

 昭和二十七年に岡崎市が連絡員の名を総代に変更することの可否を自治庁に照会して「奨励はしないが禁止もしない」とする回答を得ており、この情報を得た矢作町は昭和二十に年に廃止していた自治団体の代表者名を区番号ではなく字の区長としました。

 昭和二十七年、西之切(四区)を分けて大字矢作五区を発足させることの内示を受けた西之切(四区)の連絡員は第二十一組長と相談の上、昭和二十八年四月十一日の大安の日に第二十一組員が矢作町役場二階の広間に集まって区長選出と発足祝賀集会を行うことを決めました。

 昭和二十八年四月一日、矢作町は大字矢作五区の発足及び東之切組から西之切組までの呼称を廃止してそれぞれ矢作一区から矢作四区までとすることを告知しました。

 昭和三十年(1955)四月一日、碧海郡矢作町は岡崎市(大正五年(1916)に市制施行)へ編入となりました。

 昭和三十年(1955)十一月九日、地方事務所が廃止され改めて県の条令により管轄区域が定められ、碧海郡、幡豆郡及び額田郡を管轄する西三河事務所が岡崎市に設置されました。

 昭和三十五年(1960)一月一日、岡崎市矢作町大字志賀須香、大字長瀬及び大字志賀の一部とともに、岡崎市河野町、宇頭茶屋町、尾崎町、柿碕町、橋目町の一部が岡崎市から離脱して安城市へ編入となりました。

 昭和四十一年七月二十八日、区民の強い要望により字盗人木の地名を字末広に改めらることが認可されました。

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