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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。
矢作町界隈記
TEL.
0564-31-****
〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所
河原山勝蓮寺
SHOURENJI
矢作町字宝珠庵十六番地の勝蓮寺は浄土真宗大谷派の寺院で山号を河原山と称し、文暦二年二月(1235・3)に天台宗舜行阿闍梨が親鸞聖人(1173〜1262)に帰依して改宗し釋恵眼(1279卒)の法名を授かったことに始まるといいます。
由緒に依れば、恵心僧都(942〜1017)の弟子恵堯が師の没後、師によって彫刻された薬師如来像を持って故郷矢作へ帰り、閑居する屋敷の門外に在った柳樹の下へ御堂を設けて薬師如来像を安置し、里人はこれを柳堂薬師と呼ぶようになりました。
貞永元年(1232)、親鸞聖人(六十歳)が恵堯を旅の友に常陸国稲田の草庵を発ち帰洛の途に就いて、道中有縁の人々に説法をしながら三河国へ入ったのは天福元年(1233)中とあります。
矢作の里の天台宗柳堂薬師寺で十七日間の法縁が開かれた時に説法を聞いた住持の多くが親鸞聖人に帰依し、天台宗柳堂薬師寺の別当瞬行阿闍梨もその一人で法名釋恵眼及び親鸞聖人直筆の六字名号本尊を授かって改宗し浄土真宗柳堂道場となりました。
親鸞聖人が柳堂を発つ時に別れを惜しむ道俗は門前の道を塞ぐほどで、親鸞聖人は傍らの石に腰を下ろして名残りの説法を行い、京都へ着いたのは文暦二年中冬二月(1235・3)頃のこととされます。
親鸞聖人が腰を下ろして説法を行った石は腰掛石又は説法石と称されて境内に現存し、柳堂道場は柳堂正蓮寺を経て柳堂勝蓮寺となり歴代門跡教化の時は説法石に参詣することが例となっていました。
勝蓮寺縁起の一説に、親鸞聖人に帰依し釋西勝及び釋正蓮の法名を賜った兄弟がそれぞれ西勝庵及び正蓮庵を起こし、正蓮庵は矢作川東岸の八町村の下川崎又は下唐沢という処へ移って寺号を正蓮寺としその後寺号を勝蓮寺と改め、天正年間(1573〜1592)の一向宗禁制解除後に現在地に移ったとされます。
文明十六年(1484)の本願寺蓮如(1415〜1499)の寿像裏書に、「勝万寺門徒 矢作勝蓮寺」とあり、当時の本願寺非直参坊主では唯一寺号を持っていました。
松平広忠(1526〜1549)、家康(1543〜1616)、信康(1559〜1579)、家康の家臣石川日向守家成(1534〜1609)などから崇敬され、十七代住職行誓(1629卒)の頃は家康の嫡子信康との関係が深く、多くの遺品が所蔵されている中で市の文化財に指定されている信康の絵像は唯一のものです。
三河一向一揆(1563〜1564)による永禄七年一月十五日(1564・3・8)の馬頭原合戦では時の住持の強弓が松平家康の目にとまり、還俗して清水丹波を名乗り家康の二男秀康(1574〜1607)の家臣となったとされますが、秀康は天正十八年(1590)に秀吉によって関東の結城家の婿養子にされています。
十五代行空(1578卒)は清水正敏が出家して勝蓮寺に住し後に住持になったもので、永禄七年(1564)の頃の住持は十六代釋行善(1592卒)、十七代行誓(1629卒)は清水正誠が出家して勝蓮寺に住し後に住持になったとされます。
勝蓮寺は慶長十年(1605)に三河岡崎藩主本多家初代康重(1554〜1611)に寺内諸役免除を認められています。
門前の左(西)側に宝暦十年(1760)建立の「親鸞聖人御舊跡柳堂」の石碑があり、山門を入ってすぐの左側には石を安置した祠があってその近くに六字名号碑二基、右側には井戸、安政六年(1859)の銘がある手水石、鐘楼及び土蔵などがあります。
江戸から八十二番目に当る矢作の一里塚があったのはこの勝蓮寺の門前辺りでした。
参河聰視録矢作村記第二に次のように載せています。
「河原山勝蓮寺 一向宗東派 本寺額田郡春嵜村勝万寺
(針崎村勝鬘寺)
本堂
縁起に曰往昔恵心僧都一刀三礼の懇志を尽くして一躯の薬師を彫刻し玉
(給)
い自丈室に安置し師の滅後に至りて御弟子恵堯是を伝え其旧里たるに依て此地に至り閑居す川の辺に数?(スイ)の柳樹のありけるもとに安置し王
(給)
えりき故に世人こぞりて柳堂薬師寺と呼びならいけりしかし而許多の星霜を経て後親
(親鸞)
聖人東関の化導ことたりぬねば御年六十歳
(六十一歳)
貞永二年秋八月相模国
(常陸国)
を御発駕ありて華城の道に赴き玉
(給)
う其頃柳堂の別当舜行阿闍梨迚(とても)顕密両教に達し聞うる大徳有或夜本尊瑠璃光佛希有瑞厳の形相をあらわし大光明を放て微妙の御声にて舜行法師併矢作の里人に告げて曰西方の教主本師阿弥陀五欲の塵に影を宿し仮に凡身に化現して越路の風に法音を東関の露に化を施して長安(ミヤコ)に帰る旅僧柳堂に立寄玉
(給)
うべし是唯人に有ず
(非ず)
汝等出離の時到る因縁なり努々(ユメユメ)粗略の振舞有べからずとまさしく霊告数度に及べり是唯事に有ず
(非ず)
迚貴賎道俗袖をつらねて柳堂に来集して件の夢を語りもあえぬに親
(親鸞)
聖人の御弟子蓮位房御供して忽示(コツジ)として来らせらる実(ゲニ)
(実に)
や化益の旅に御身はやつれさせ玉
(給)
うと云え共諸人尊願を拝するに立所に歓喜湯仰
(嘆仰)
の思いをもよおし各々霊夢の府合せる事を申しあえりき聖人来集の人に宿善の時至る事を悦び一七日柳堂に御座をしめて本願圓頓の妙術を他力易行(イギョウ)の深意を演説ましましき誠に難思の弘誓を難度海を渡る大船無事の光明は愚痴の闇路を照らす仏願の知炬(チコ)薬師の霊告は唯仏與仏の知見彼といい是といい寄
(奇)
なる哉妙なる舜行阿闍梨忽ち本宗を改め御弟子と成法名を釋恵眼と賜る則柳堂を一向専修の道場となしける也」
また、「一書に曰往昔親鸞聖人御帰洛の時矢作里柳堂にて勧化の時二人の御弟子在之西勝正蓮と謂経の後一庵を建以法名寺号とす八町村の下川アと謂処なり」とも載せ、参河志にもこれと同様の説が載っています。
岡崎古事伝に曰「青蓮寺
(正蓮寺、後の勝蓮寺)
屋鋪は今の桜の馬場清明屋敷 其後東矢矧に移る其古趾也」
岡崎旧記に曰「明秀は三河一揆の時勢列へ落居しとや 帰参の後は御城下唐沢に道場を建て勝蓮寺(正蓮寺)と云 其後矢作村柳堂の旧地の傍に引っ越し今にあり」
清水氏系譜に曰「清水万三郎正房三男源太左衛門有故出家 矢矧里に閑居して勝蓮入道と号す」
三河雀に曰「勝蓮寺無縁柳御堂共云 徳阿彌公新田より御遷流の時初めて此寺に御休足
(息
)と云 昔は天台宗なりしに親鸞聖人と法論して改宗すとなり 按ずるに右徳阿彌公御休足
(息
)は光明寺 天台宗とは柳堂の事なり」
矢作町誌に「往古恵心僧都の彫刻されし薬師如来をその弟子恵堯が矢作の里の川辺の柳樹の許に安置せり。世人これより柳堂薬師と呼ぶ。その後嘉禎元年二月(文暦二年二月1235・3)のこと)宗祖親鸞聖人関東より帰洛の時当寺に於いて三十七日の法延(法縁のこと)を開かる。別当瞬行阿闍梨忽ち天台宗を改め弟子となり法名釋恵眼と賜り且つ聖人より弥陀尊像を与えられ代々伝えて本尊となす。聖人上洛の時道俗別れを惜しみ門前道を閉ず。これにより傍なる石に腰を案じ名残の御教化を示し給う。この石は説法石又は御腰掛石と称し現存す。勝蓮寺の名はその後称せしものなり。歴代御門跡教化の時は説法石に参詣あるを例とす。又徳川将軍家より墨付古文書武器拝領物等あり。本院を始め書院庫裏等完備せり。」と載せています。
親鸞聖人御旧跡柳堂
門前に「親鸞聖人御旧跡柳堂」と刻した石標があり、次の碑文が刻されています。
背面(北面)の碑文
夫當寺者往古醫王山柳堂薬師寺之遺跡而台流之梵刹也矣于茲天福
元中 大祖聖人歸洛之日有醫王善逝告命因茲淹留此地利物一七日
斯時一山之貫首舜行阿闍梨改本宗結師弟芳契真宗之傳汰流焉廠后
有衰弊之候至中古紹次法燈而漸興矣
碣
來予乞班列二十四輩徒之席
恭而 本山即賜聖蹤證券故表識馬矣而己
維時寶暦十年歳次庚辰林鐘 現住行拐
(竹冠に拐)
謹識
東面
矢作里 河原山勝蓮寺
「一七日」の部分は「十七日」とも「丗七日」とも読めます。
「碣」の朱書した文字は此処に表示されないための代字で、碑の文字は「去と曷」を並べた文字(去曷)です。
「現住行拐
(竹冠に拐)
謹識」とありますが、參河聡視録によれば寶暦十年(1760)の住持は行圓(安永五年正月九日(1776・2・27)卒)でその次が行拐
(竹冠に拐)
(文化九年正月廿五日(1812・3・8)卒)です。
文明十六年(1484)の本願寺蓮如の寿像裏書に「勝万寺門徒 矢作勝蓮寺」とあり、当時の非直参坊主では唯一寺号をもち、天文年間(1532〜1554)には石山本願寺の御堂当番を勤めています。
中世の勝蓮寺は矢作川東岸の川崎の地にあり、現在地に移ったのは天正年間(1573〜1592)の一向宗禁制解除後のこととされます(参河聰視録矢作村記)。
慶長十年(1605)、本多康令(康重)に寺内諸役免除を認められ、松平八代広忠、徳川家康、信康、石川日向守などの崇敬が厚く、十七代住職行誓の時には松平信康との関係が深くあったと言われます。
境内には市指定文化財の松平信康の唯一の絵像といわれる画像をはじめ多くの遺品が保存されています。
親鸞は承安三年四月一日(1173・5・21)の生れで、関東から京都への帰洛は六十二歳の時とされていますので、矢作の里に居たたのは天福元年(1234)の冬から天福二年(1235)の秋までの間のことと思われます。
岡崎市西部地区の真宗寺の縁起
岡崎市内の真宗寺の縁起には、柳堂薬師寺における親鸞聖人の説法会に関連すると思われものが幾つかあります。
願照寺(舳越町)は、「嘉禎二年(1236)、親鸞聖人の教法を受けて天台宗から改宗した」としています。
光善寺(新堀町)は、「文暦二年二月(1235・3)、見眞大師化尊巡回の時、天台宗から眞宗に改む」としています。
聖善寺(宇頭町)は、「天台宗鳳學寺といったが文暦中眞宗に転じ今の寺号に改めた」としています。
勝蓮寺(矢作町)は、「嘉禎元年二月(1235・3)、親鸞聖人関東より帰洛の時柳堂薬師寺において七日の法筵が開かれた」としています。因みに嘉禎元年は九月十九日からのことで、正しくは文暦二年二月(1235・3)になります。
上宮寺(上佐々木町)は、「貞永元年八月(1232・9)、矢作柳堂において親鸞聖人の説法あり」としていますが、史料では親鸞が常陸国稲田で布教を行っていた頃とされています。
清泰寺(富永町)は、「見眞大師が桑子太子堂(柳堂とも)滞在説法の節天台宗から眞宗に改め、享保九年八月に現在の寺号に改めた」としています。
報恩寺(北野町)は、「天台宗北谷坊と称し自然廃寺となった後、文暦元年(1234)、見眞大師が関東より帰洛の時、大師に帰依して眞宗道場となり、文久元年に現在の寺号となった」としています。
親鸞聖人の見真大師の諡号は、明治九年(1876)十一月二十八日に明治天皇からを追贈されたものであることから、この縁起はその後の寺院調査の際に創作して提出されたものであることが判ります。
妙源寺(大和町)は、「文暦二年二月十二日(1235・3・9)、親鸞聖人が関東より帰洛の切、桑子城主安藤薩摩守信平が大師を城内の太子堂に招じて説法を乞い直ちに法弟となった」としています。柳堂薬師寺で説法会を行っている親鸞を、同じ矢作の地の桑子城内の太子堂招いたとするのは当時の様子としてかなり強引な創作といえます。
柳堂寺(矢作町)は、「杉浦新兵衛長親が蓮如上人の弟子となり、蓮如上人が参州留寓の時に草庵を建立し、文明十八年三月十八日に当寺へ止宿された蓮如上人は茲地は柳堂の故址と説法ありしという。明治初年までは単に道場と呼べり」としています。
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