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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 植村新六郎栄安生誕地碑(東本郷町) 

 岡崎市東本郷町古屋敷無番地(六十四番地の北隣)の阿弥陀堂前に「植村新六郎栄安生誕地碑」がある。

 このページの記事は矢作町内のことではなくその南西にある東本郷町のことで、記事の内容は諸説の中の一つに過ぎないが、美濃守護七代目の土岐氏支流池田二郎持益と上村源(みなもとの)三郎持益が同名であることから同一人物と思い誤まられている事を知り追記したものである。
 美濃守護七代目の持益は、文明六年(1470)九月七日に六十九歳で亡くなった。
 これは上村三郎持益が三河国へ移り住む二十年程前のことである。
 上村三郎持益は初名を光貞といい、土岐氏美濃守護七代目持益の従弟に当たる。
 光貞は、美濃守護だった持益の死後にその名を名乗り、後に三河本郷へ移住したもので、上村氏の名字を植村氏に変えたのは三河国へ移り住んでからのことである。

 交通の要衝である本郷村北浦へ移った植村氏の居館跡には、いつの頃からか岡崎藩本多氏五代藩主忠民及び同六代藩主忠直の時代に藩出入りの獣医師を勤めていた永井某氏が居住し、明治の時代に至っても土塁は残っていた。

 廃藩置県後の永井氏は子息と共に自作農の傍ら地元民の農耕馬の獣医師を勤め、更にその次の代で娘に婿を迎えて養嗣子としてからは専業農家となって、土塁を畑に開墾し蜜柑畑へと様相が変わた。

 阿弥陀堂



 碑文

植村新六郎栄安生誕地碑
植村榮安稱新六郎其先出美濃人土岐持益持益明應中移
居遠江植村因氏焉後轉参河仕松平長親其子氏義生榮安
於此地天文四年十月松平清康討織田氏入尾張次森山偶
侍臣阿部正豊謬聞父被害發狂弑清康榮安在側直誅正豊
時年十六矣織田兵乘變來攻榮安等力戦却之十四年三月
松平廣忠為客臣岩松八彌所傷廣忠追之不及榮安遇之于
橋上相搏輾轉墜乾濠松平信孝把槍臨濠曰子縦焉我刺之
榮安曰縦則逸不若併我刺之信孝猶豫榮安竟斬八彌人皆
歎稱焉後?有戦功任出羽守二十一年八月戦死於尾張沓
掛城年三十三其子孫亦仕徳川氏封大和高取城明治四年
廃藩列華族今當大典建碑表之◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇・
大正四年十一月        愛知縣



 遠江国上村とは

 遠江国上村とは、豊田郡にあった村で江戸時代に月村へ統合された。
 明治二十二年(1889)四月一日の町村制の施行により、月村及び伊砂村など十二ケ村が合併して豊田郡龍川村が発足した。
 明治二十九年(1896)四月一日の郡制の施行により、豊田郡は磐田郡に編入された。
 昭和三十一年(1956)九月三十日に二俣町及び龍川村など一町五ケ村が合併して二俣町となり、昭和三十三年(1958)十一月三日に二俣町が市制を施行して天竜市となった。
 平成十七年(2005)七月一日に天竜市及び龍山村が浜松市に編入され、平成十九年(2007)四月一日に浜松市が政令指定都市に移行し旧の天竜市及び龍山村は天竜区となった。


 植村氏略系図


 植村持益

 土岐三郎持益(生没不詳)の祖父土岐頼忠は、応永四年八月十一日(1397・9・10)に七十五歳で亡くなった。
 土岐三郎持益の父土岐三郎次郎光兼は、頼忠の七男で武儀郡洲原郷に居住して洲原氏を名字とした。
 土岐三郎持益の兄次郎資長は菅沼氏の始祖と伝えられるが、その出自は諸説あり詳らかでない。
 清和源氏頼光流土岐氏庶流の菅沼氏は、室町中期に土岐光兼の二男資長が美濃国土岐郷から三河国設楽郡菅沼郷に所領を与えられて同地に移り住み菅沼氏を名乗ったのが始まりとする説もある。
 一説に、三河国野田の城主富永信資に養われた資長が菅沼九郎左衛門忠通の養子となって菅沼定直と名を改めたとも、資長は土岐頼康の曾孫で別名定直ともいう。
 また、土岐頼康三代の島田満貞の子木和田安達の子土岐定直が将軍足利義教の命によって三河国の住人菅沼俊治を討ちその諸領を与えられて菅沼の氏を称したという説もある。

 土岐三郎持益について、岡崎市北本郷町神明社所蔵の「重代(「重大」の当て字)記録(天正十五年改寫)」によれば、「明應二年土岐源三郎持益及び新六郎氏義父子が遠江植村(正しくは上村)から三河本郷へ移り住みその子氏義が名字を植村と改めた」ということが記されている。
 一部において、美濃守護七代目であった土岐持益が三河本郷へ移住したとする誤伝があるが、美濃守護であった持益は通称池田二郎を名乗り、三河本郷へ移住した土岐持益は通称三郎を名乗った。
 両持益は従兄弟同士で、三郎持益が三河安祥へ移住したとされる二十年程前の文明六年(1474)に池田二郎持益は亡くなっている。
 静岡県姓氏家系大辞典(角川書店)に「上村氏は遠江(称清和源氏、土岐氏族)植村氏家系に順えば、土岐光兼の子持益が遠江国上村に移り家号とした。後には植村に改める」と載せ、これから推測すると明応二年(1493)の持益はまだ美濃にいて氏義が生れて間もない頃であろうと思われる。
 新訂寛政重修諸家譜第五(続群書類従完成会)に「もと土岐を稱し、源三郎持益美濃國より遠江國上村に移り住して家號とし、其後植村に改む。今按ずるに土岐系圖、伊勢守光兼が兄美濃守頼益が長男を美濃守持益とし、これを土岐の嫡流とす。源三郎持益と從兄弟にしてその名を同じくすること疑いなし」と載せ、「持益初光貞源三郎 明應年中美濃國より遠江國上村に移り、後三河国に至り長親公に仕へたてまつる。某年死す。法名圓智」と載せている。
 また、土岐頼益の子持益は「童名法師丸、二郎、右馬允、左京大夫、美濃守、従四位下、藤定院義持より偏諱を賜い持益と称す」と載せ、土岐光兼の子持益は「初め光貞、源三郎、明応年中美濃国より遠江国上村に移り、後三河国に至り長親君に仕え奉る。某年死す。法名圓智」と載せている。
 参河志に「土岐源三郎持益濃州より遠州植村に住す明應年中植村と號し三州來て長親に仕官す」と載せ、三河国本郷村に城を築き新六郎氏義、新六郎栄康と続いたとある。
 また、「東本郷 高六百七十石 岡崎領 古城 植村新六栄康、後出羽守に任ず。濃州の土岐氏源三郎持益が遠州植村へ移住した。明應年中に植村を號して三州へ移住し松平長親に仕官す。其子新六郎氏義、其子新六郎栄康なり、松平清康に仕官す」ともある。
 三河国安祥郷へ移住した持益は松平長親(1473〜1544)及び信忠(1490〜1531)父子に仕えたと思われる。
 土岐光兼の嫡男光貞(後の上村持益)の従兄で第七代美濃守護であった本姓土岐氏名字池田の二郎持益は、康正元年(1455)に嫡男持兼が早世したことから持兼の庶子亀寿丸を継嗣とすることを望んだが、守護代の斎藤利永がこれに反対して一色義遠の子の成頼を擁立し争いになった。
 これに敗れた持益は、康正二年(1456)に隠居させられて成頼が跡を継いだが、その実権は守護代の利永が握り、持益は文明六年(1474)に享年六十九歳で死去した。
 土岐光兼及び光貞父子の一族は、成頼が美濃守護になって斎藤利永がその実権を握り利永が亡くなった後の実権を握った妙椿によって遠江国豊田郡上村へ移住させられたものと思われる。
 居住地に因んで名字上村氏を名乗ることになった上村三郎持益は、延徳年中(1489〜1429)に三河国安祥郷東端(現在の安城市東端町)へ移住し、嫡子氏義が本郷郷北浦(現在の岡崎市東本郷町字北浦の交通の要衝に近い所に居館を構えてから名を栄康と名乗るようになったもの思われる。

 参河志略系図
 土岐持益三郎 美濃国より遠州植村に至り初めて植村と称し又三州に来り住す。─┐
┌─────────────────────────────────────┘
└氏義新六郎─氏明新六出羽守─栄政改め家政改め─家次―家政―家貞―家言―家敬―家包―家道―家久―家利―家長―家教―家貴―家興―家保―家壺


 植村氏義

 持益の子氏義(生没不詳、1490頃の生れか)は松平長親の子信忠(1490〜1531)と同じ頃の生れで、清康(1511〜1535)、広忠(1526〜1549)及び家康(1543〜1616)の三代に亘って松平家に仕えたものと思われる。


 植村栄安

 永正十七年(1520)に氏義の子として生まれた後の新六郎氏明、1520〜1552)は、清康、広忠及び家康(1543〜1616)の三代に亘って松平家に仕え、小豆坂の戦い(天文十一年(1542)及び同十七年(1548)の二度抗争)で戦功をあげている。
 天文四年(1535)十二月五日に清康が尾張守山の陣中で家臣阿部大蔵定吉の子部弥七郎正豊に殺害された折には、弱冠十六歳であった氏明がその場で弥七郎を誅し主君の仇を討った。
 また、天文十四年(1545)三月(一説に天文十五年の冬)に家康の父広忠が岡崎城内で近臣の岩松八彌に切り付けられましたが、この時、氏明は八彌と組み打ちの末に松平信孝と共に討ち果たして主君二代の仇を討ったとされる。

 三河後風土記に「天文十四年三月十九日、松平広忠が戸田弾正頼光の娘を娶り祝いの席で皆が奇芸を披露した時、一眼の岩松八彌は武勇はあるが遊芸などを知らず嘲わられたという。その翌日広忠が手洗い場に立った所を後方から八彌が村正の脇差で刺そうとした。広忠はこれをかわしたが傷のため追いかけることができず、番替わりで登城の折の植村新六郎氏明が異変に気付いて逃亡した八彌を追い詰め手傷を負いながらも捕らえた。また松平信孝がこの異変に気付き槍で八彌を突き留めたという。この時の松平広忠は傷を負ったが死亡には至らず、天文十八年三月六日に病死した」と載せている。

 また、参河志には「後風土記に云う。天文十四年乙巳(1545)三月廿日、廣忠公が不慮の災難に遭えども命には別義なし。その儀を尋ぬるに譜代の臣士に岩松八彌という者があり、新田の末葉にて岩松の嫡子なり。比類なき剛の者で度々戦に手柄を顕したり。此の者は片目のため時の人は片目八彌というなり。敵方にても渠を見知ってその片目が出たといえば軍兵その名に恐れをなし、八彌自身も後は岩松を名乗らずして片目八彌と名乗り自ら片目を以て称号としたり。然るに今日八彌が出仕して何の仔細もなく村正の刀を以て廣忠公を突き襲ったが突き損じて股を突き貝吹きて逃げ走る。廣忠公も脇差を抜いて門外まで追いかけたまえども股の痛み故に追い着い着けたまわず。そこへ出仕したる植村新六郎が門外で八彌と行き遭い、無手で組み合い傍の乾濠へ転び堕ちるとも両人ともに組み放さざりし折節、出仕してきてた松平蔵人信孝が下人に持たせていた槍を手に取り「信孝が突き殺す故その敵を放されよ」と声高に叫んだ。然るに「此れ大事な敵なれば放すこと叶わず、新六ともに突き刺されよ」と八彌を放さず答える。新六郎も強力であったがそれに勝る八彌は酒に酔っていて新六郎を取り拉ぐことはできず、上になり下になりと転び続ける処を終に信孝が八彌を突き殺したり。この時発した新六郎の言葉に人は皆大いに感じ入ったという。この新六郎は去る天文四年十二月五日にも廣忠公の父清康公を誤解して討った安部正豊を討ち取っており主君二代の敵を討ち取った誠に冥加の勇士なり。」と載せている。

 松平信孝は岡崎城の留守居役を勤めている時に広忠の帰城に協力し、天文十一年(1542)六月一日に広忠が帰城した後には若年広忠の後見役を勤めた。
 信孝はやがて専横になりこれを憂いた広忠の家臣は、天文十二年(1542)正月に病床に伏していた広忠の名代として今川家へ年賀の挨拶に行かせ、その間に信孝の居城三木城を攻め落とし、帰城できなくなった信孝は当時松平氏と敵対していた織田信秀を頼って信秀に従属したという。
 これを真実とすれば信孝が岩松八彌を突き殺したという史実は辻褄が合わないことになり、然も広忠が帰城して僅か半年後のことでありこの説は信憑性に欠ける。
 一説に、広忠公は天文十四年乙巳(1545)三月廿日に岩松八彌に襲われて亡くなったとするものもあるが、天文十五年(1546)冬から病に臥せるようになり、天文十六年(1547)正月の今川家への年賀の挨拶は信孝が名代としていったとするものもある。
 広忠は天文十八年(1549)三月六日に二十四歳死去したが、殺害されたのか病死かは不明である。

 植村栄政

 氏明の子(幼名不詳、1541〜1577)は九歳の頃から竹千代(後の家康)に近侍し、天文二十一年八月四日(1552・9・2)に父氏明が沓掛で戦死したことにより、十二歳で元服して名を栄政(よしまさ)と改め家督を継いだ。
 永禄六年(1563)に起こった三河一向一揆(参河物語に依れば永禄六年(1563)正月勃発)では植村新六郎に小豆坂の戦いでの戦功があり、天正三年(1575)五月二十一日の設楽原の戦いでは織田及び徳川連合軍に植村出羽守栄政及び植村庄右衛門正勝の名がある。
 徳川家康から偏諱を賜い家政を名乗ったが、後に「家」を植村家の通り字にすることの許しを得て、家存(いえさだ)と改めた。


 美濃守護土岐氏略系図

 


 土岐氏

 土岐氏の略系図には諸説があり真実の程を詳らかにすることは無理であるが、東鑑の建久四年五月八日(1193)条「将軍家(源頼朝)富士野藍澤の夏狩りを御覧玉わんが為駿河の国に赴かしめ給う」の記事の中に「土岐の三郎」の名が見え、この土岐の三郎は光衡(当時三十五歳)のことと想定されて、系図では光衡を土岐氏の始祖とするものが少なくない。
 清和源氏頼光流の国房(頼光の孫)から出羽守光国、出羽守光信及び伊賀守光基という流れの中で、光基には女子(河内守藤原秀宗室)、光行(早世か)及び頼基の三人のがありながら実嗣子頼基には伊賀国の所領を与え、土岐氏宗家は弟光長の子光衡を養子にして後継者としその光衡が初めて土岐氏を名乗っている。
 実名で見える土岐氏は、東鑑に建保四年(1216)から嘉禎二年(1236)にかけて出てくる土岐左衛門尉光行(土岐氏二代目)の名が初出で、鎌倉時代の土岐一族の者の実名は同書では他に見当らない。

 土岐氏四代目の頼貞(1271〜1339)が初代美濃守護となり、土岐氏一族の強力な武士団を有した三代目美濃守護頼康は弟の頼雄、康貞、直氏及び頼忠を美濃各地に配し結束を強化する中で室町幕府初代将軍足利尊氏(在位1338〜1358)を常に支持した。
 観応二年(1351)に尾張守護職に任じられ、延文五年(1360)には伊勢守護職に任じられて東海道の要衝三ヶ国の守護となり土岐氏の最盛期を築き上げた頼康は、室町幕府第二代将軍義詮(よしあきら、在位1358〜1367)及び第三代将軍義満(在位1368〜1394)に仕えた。
 頼康は弟頼雄の子康行を養嗣子とし一人娘を二条良基に嫁がせており、嘉慶元年(1388)十二月二十五日に頼康が死去すると、康行が跡を継いで四代目美濃守護、尾張守護及び伊勢守護となった。

 室町幕府第三代将軍足利義満は勢力の強すぎる土岐氏一族の内紛を画策し、頼康が死去すると三ヶ国の守護康行の弟満貞と密かに接触して尾張守護職を与え土岐氏の家督も継がせようとした。
 義満の挑発により康行は挙兵に追い込まれ(土岐康行の乱)幕府軍の追討を受けて没落し、戦後の処罰として尾張守護職及び伊勢守護職を取り上げられた上で五代目美濃守護となったのは康行の養父頼康の末弟で土岐西池田氏を名乗る頼忠(通称池田二郎)である。
 土岐氏六代目に当たり通称池田二郎を名乗った頼忠には嫡子頼益及び末子の庶子光兼など十人以上の子があって、頼益は六代目美濃守護になり通称池田二郎を名乗った。

 六代目美濃守護頼益の死によりその子(幼名某)が九歳で元服し、室町幕府第四代将軍義持(1386〜1428、在位1394〜1422)の偏諱を賜い池田二郎持益と名乗って七代目美濃守護となった。
 六代目美濃守護頼益の末弟光兼の子も源三郎持益と名乗るようになって、五代目美濃守護頼忠の孫に二人の持益いることになったことから、北本郷町の重代記録には誤った記述が成されることになったものと思われる。

 七代目美濃守護土岐持益の嫡男持兼が早世したため、持益は持兼の子亀寿丸を後継ぎにしようとしましたが、美濃守護代の斎藤氏がこれに反対して抗争となった。
 康正二年(1456)に持益は一色氏の子成頼(1442〜1497)を養嗣子にさせられると共に隠居させられて、成頼(1442〜1497)が八代目美濃守護(在位1456〜1495)となった。
 八代目美濃守護の成頼は、応仁元年(1467)に起こった応仁文明の乱では山名宗全方に付いて西軍の重鎮となり、戦乱中京都に滞在して本国の美濃を顧みなかったことからその間に守護代斎藤妙椿が着々と美濃国内を平定して、東濃、西濃、中濃及び伊勢の一部まで勢力下に置くようになって主家土岐氏を凌ぐ勢力となった。
 この守護代斎藤氏の勢力拡大は、この頃の土岐氏一族を各地へ移住させる大きな要因になったのであろうと推測される。

 応仁文明の乱とは、応仁元年(1467)から文明九年(1477)までの十一年間、管領細川勝元の東軍及び山名宗全・持豊の西軍が戦った内乱で京都が主戦場となり、始まった年号だけをとり応仁の乱ともいう。
 また、成頼は嗣子政房がいるにも拘らず末子元頼に跡を継がせたようとしてこのことを密かに小守護代の石丸利光にその補佐を頼んだことから、土岐氏及び斉藤氏の両家で家督争いに起因する内訌を生じさせることになり、明応四年(1495)に石丸利光が率いる軍勢及び守護代斎藤利国がかためる軍勢が激突することになった(船田合戦)。
 七代目美濃守護土岐持益(通称池田二郎)の従兄弟の持益(通称源三郎)が遠江国上村へ移住し、資長が三河国設楽郡菅沼郷へ移住したのはこの直後のことと思われる。

 九代目美濃守護となった政房もまた父成頼同様に長男頼武を排除し次男頼芸に跡を継がせようとして小守護代の長井長弘及び斎藤彦四郎(利親の弟)がこれを支持し、頼武には守護代斎藤利良(利親の子)が味方してこの時も土岐氏及び斉藤氏の両家で家督相続争いが起こった。
 永正十四年(1517)には終に合戦となりこの時は頼武方が勝ちましたが翌年には敗れて越前に逃れ、この内乱中の永正十六年(1519)に政房が六十三歳で死去しその後の同年に朝倉氏の助力を得た頼武が十代目美濃守護の座に就いた。
 しかし、なおも頼芸方は家督奪取を狙い美濃の混乱が続いて、享禄三年(1530)に再び兄を越前へ追放し実質的には十一代目美濃守護となったが兄頼武の跡を継いだ頼純と対立した。
 天文十五年(1546)に頼芸及び頼武の間に和議が整い頼純が十二代目美濃守護となったが、翌年頼純が急死して再び頼芸が十三代目として美濃守護に復帰した。
 天文二十一年(1552)頃、頼芸は追放されて土岐氏の美濃守護の時代は終わり、近江、常陸、上総及び甲斐を経て美濃の稲葉一鉄に迎えられた頼芸は此処で亡くなったと伝えられる。


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