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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 浄瑠璃姫伝説

 浄瑠璃とは、平曲・謡曲などを源流にした音曲語り物のことをいいます。
 室町末期に主として琵琶や扇拍子を用いて語られた新音曲のうち、浄瑠璃御前物語が特に民衆に受け入れられて好評だったことから、この種の一連の語り物の呼び名を「浄瑠璃」と言うようになりました。
 三条西実隆(天文六年(1537)没・享年八十三歳)の「実隆公記(文明七年七月(1475/08)」に初めて浄瑠璃御前が出現し、柴田屋軒宗長の記した宗長手記の大永七年四月(1527/05)の条には次のように記しています。
 「それより矢矧の渡りして妙大寺 むかしの浄瑠璃御前跡 松のみ残て東海道の名残 命こそながめ待つれ いまは岡崎といふ松平次郎三郎の家城なり」。
 四月六日のこと、矢矧川の渡し船に乗り西流乙川を遡って妙大寺に着いた宗長が、浄瑠璃御前の遺跡おそらくは屋敷跡と伝えられる所に残っている松を眺めたということです。
 松平次郎三郎は家康の祖父世良田次郎三郎清康のことで、これにより浄瑠璃御前物語の成立は文明七年(1475)以前であることが窺えます。

 「承安四年(1174)春、義経は貴金属商の金売吉次の手引きで、東北の藤原秀衡を頼り、奥州平泉へ向かう旅の途中、この矢作宿で源氏ゆかりの侍達と落ち合うため、長い逗留をした。それから十年後の寿永二年(1183)、義経の帰りを待ち続けていた浄瑠璃姫は、三月十二日の未明、乙川の流れに身を投げ、自ら命を絶った」という浄瑠璃姫伝説の物語は創作であるとするのが定説ですが、地元においては浄瑠璃姫と呼んでその実在説が主張され、静岡県の蒲原宿にも浄瑠璃姫伝説がありこちらでは蒲原まで義経を追いかけてきた浄瑠璃姫がそこで没し、その浄瑠璃姫の墓と薄墨の笛があるといいいます。

  矢作町旧東海道沿いの誓願寺十王堂由緒には、「寿永三年(一一三八)三月、矢作の里の兼高長者の娘 浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり、菅生川に身を投じたので、長者はその遺体を当寺に埋葬し、十王堂を再建して義経と浄瑠璃姫の木造を作り、義経が姫に贈った名笛薄墨と姫の鏡を安置した」と記された案内板がありました。
 義経が生れたのは平治元年(1159)のことで矢矧の宿に寄ったのは十五歳の時(1173)とされており、十王堂由緒に
「寿永三年(一一三八)」とあるのは「寿永二年(一一八三)」の誤りです。
 この誤りを再三お知らせしましたが案内板は朽ちてしまい、数年後に案内板が再設置されましたが内容は誤ったまま複製されています。

 また、幾つかある浄瑠璃御前物語の写本には差異があり、「再会を待っていた姫は侍女もんじゅの虚言を信じて自害し、娘の死を悲しんだ母は投身した。御曹司はもんじゅを召し取り加茂川に沈めた」というものもあり、地元で浄瑠璃御前物語を模写して創作された浄瑠璃姫物語では「姫は寿永二年三月十二日(1183/04/13)に乙川に入水した」とされています。
  現在の矢作町は昔の矢矧西宿の北の隅に当るところにあり、江戸時代の上矢作村と下矢作村は明治の時代になって戸籍が作製されることになった時、西矢作村と東矢作村に改められ、明治十一年(1878)十二月二十八日には東西の矢作村を併せて矢作村になり同二十六年(1893)二月十九日に矢作町に改められました。
 現在の矢作町は浄瑠璃姫伝説とは本来何の縁もなく、浄瑠璃御前物語に出てくる矢矧宿(やはぎのしゅく)は後の矢矧東宿のことで、現在の明大寺本町・上明大寺町・吹矢町辺りと考えられていました。
 永享十一年(1439)に創建された安心院(明大寺町馬場東五四)は妙大寺の一宇があった場所で、妙大寺の寺名が現在の明大寺の地名になったと伝えられています。
  瑠璃山光明院の縁起に「持仏堂の地は浄瑠璃姫が阿弥陀仏を安置して東旭真光の二坊を建てたる所なるが、西郷氏の城郭を築くに至り地を代えしめんとしたのに本尊動かず、よってそのまま祈祷所とした。信貞が城を広むる時、多くの地を寄進して之を三の丸に移した。よってその地を浄瑠璃曲輪という。」とあります。
 岡崎城は、康正元年(1455)に三河守護代であった西郷彈正左衛門頼嗣が現在の岡崎城がある辺りとは全く別の所に築城したと伝えられています。
 下の画像は慶念山誓願寺の境内にあるもので、宝篋印塔(中央)が浄瑠璃姫の墓、五輪塔(左端)が兼高長者の墓です。


 浄瑠璃御前物語(新日本古典文学大系90 古浄瑠璃説経集)

 浄瑠璃姫の父は三河の国司源中納言兼高といい、母は矢矧宿の長者でいくつもの蔵を持つ海道一の遊女である。
 二人の間には子が授からず、このことを悲しみ鳳来寺の薬師瑠璃光如来へ申子(もうしご=神仏に祈ったお陰で授かった子)をして一女を得、薬師仏に因んで名前を浄瑠璃と付けられ、寵愛されて美しく成長した。
 源氏の御曹司牛若丸は七歳の時(1165)鞍馬に登山して垢染みた衣で勉学に励んでいたが、平家の稚児たちに毛虫の中の蓑虫稚児だとはずかしめられ、このことを手紙に書いて母常盤へ送った。
 常盤は涙を流してこの手紙を読み、都の縫い手をそろえて十具の直垂(ひたたれ)を縫わせ牛若丸に送った。
 御曹司は十五歳(1173)にして奥州に下る金売吉次(かねうりきちじ)の供をして旅発つことになった。
 道中矢矧に宿を取った夕刻、長者館に惹かれて中をのぞくと折柄、姫と侍女がはじめた管絃の面白さに我れを忘れ、笛を取り出して和した。
 管絃を止め聞き惚れた姫は侍女にその人を見に行かせ、その報告でただ人ではないと知った姫は七度も使いをやって招き入れ、御曹司を交えて管絃に興じた後、尽きぬ思いを残して御曹司は去っていった。
 姫の面影が離れず夜更けて御曹司は忍び入り、十五夜(月に寄せた侍女の名)の手引でやっと寝所に至り声をかけたが姫はなびかない。
 大和詞(やまとことば)で恋の思いを述べ、恋の故事を引用して口説いたが姫は拒みつづけ、更に亡き父の精進中と拒んだが、御曹司も父の精進中と迫るのに抗しきれず、二人は十五夜が準備した御座で結ばれた。
 しかし、恋の問答に時刻を費やした二人はたちまちに鶏明を迎え、名残を惜しみつつ別れて涙とともに御曹司は再び吉次の太刀を持って東へと旅立った。
 漸く蒲原宿(かんばらじゅく=由井と吉原の間の宿)に至った御曹司は恋の想いと疲れから重い病に伏した。
 吉次一行が宿の主人に世話を頼んで去った後、宿の女房が娘の婿殿にと口説くが斥けられ、恨みと欲の余り、亭主が御曹司の為に箱根の権現へ百日籠りをしている留守中に彼を吹上の浜に棄てさせた。
 源氏の氏神正八幡の守護によって命を永らえている御曹司の難を、神の知らせで知った姫は冷泉(れいぜい=姫の乳母)と共に吹上の浜に急ぐ。
 氏神の使者である白鳩の案内で漸く砂中に瀕死の御曹司を見つけ、嘆き悲しみ神々に祈誓すると、薬師の利生の姫の涙で御曹司は蘇った。
 二人は喜び数日を経たが再び別れの時を迎え、御曹司の招いた天狗の羽交に乗じて姫達は矢矧に飛び帰り、御曹司は旅を重ねて奥州平泉藤原秀衡のもとに至った。
 姫には、いずれ大名から婿を取ることを考えていた母の長者は、姫が金売吉次の供で馬迫冠者(うまひきかんじゃ)の御曹司と一夜の契りを結んだことを口惜しく思い、ましてや後を慕うことなど無念たぐいなしと怒り、「いずこなりとも紛れ行け」と追い出してしまった。
 涙に濡れて矢矧の宿を出た姫は、冷泉と共に鳳来寺の奥の笹谷に至り、細い竹の柱と笹の葉を敷いた粗末な小屋を建てて住み、食べ物もなく沢の根芹や里田の落穂を拾い露の命を送らせていたが、遂に朝(あした)の露と消えた。
 吹上の浜で別れてから三年後、御曹司は軍勢を催し上京の途次矢矧の宿を訪ねるが姫はその時既に亡く、尼となった冷泉に案内され笹谷の墓所を訪ねた御曹司が供養すると、御墓は三度揺れてから五輪が三つに砕け、一つは御曹司の右の袂に飛び込み、一つは金色の光を放って虚空へ飛んで行き、後の一つは御墓の印となって姫は成仏した。
 その跡に寺を建立して冷泉寺と名付け、寺領を添えて冷泉に与えた御曹司は、姫を棄てさせた母に縄をかけ、矢矧川で荒簀(あらす)に巻き紫漬け(ふしづけ=刑罰として罪人を簀巻きにして水の中に入れること)にして誅した後、都に平家討伐のために上っていった。



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