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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 慶念山誓願寺 SEIGANJI

 矢作町馬場四番地の誓願寺は浄土宗鎮西派の寺院で山号を慶念山と称し、その縁起は往昔此地に池があり如何なる理由があったのか慶念という者がこの池で入水自殺し、その後夜毎に慶念の霊魂が現れて里人を怖がらせたことから成仏得脱(じょうぶつとくだつ)のためにこの池を埋め、長徳三年丁酉三月(997・4)に一宇を草創して中尊に本尊阿弥陀如来を安置し脇に恵心僧都自作の千躰の地蔵菩薩を安置して慶念山誓願寺と称するようになったといいます。

 その後、寿永二年三月(1183・4)に矢矧の里の富豪兼高長者の一子浄瑠璃姫が、慕っている源義経(1159〜1189)の帰りを待ちきれず菅生川に身を投じて自殺したことから兼高長者はその遺体を慶念山誓願寺の境内に埋葬し、建久年中(1190〜1198)に十王堂を建立して浄瑠璃姫及び義経の両木像を造り姫が義経から賜っていた薄墨の名笛及び姫の鏡等と共に安置して菩提としたといいます。
 また、十王堂は千躰仏堂とも称され、中尊には恵心僧都が一刀三礼を以て彫刻した子安延命地蔵菩薩(千躰の地蔵菩薩とも)を安置するとともに小野?直作の十王を安置して義経及び浄瑠璃姫の二体の像を造って篭め置き仏事勤行を怠慢なく行っていたが、その後誓願寺は兵火の為に焼失し十王堂並びに千躰の地蔵菩薩は焼失を免れたが累世に大破する事が数度に及び千躰の尊像も数多く失い今は僅かに残って矢作千躰と称されるようになったともいいます。

 参河聰視録矢矧村記二には、次のように載せています。
 「慶念山誓願寺 浄土宗鎮西派公義は十王堂
 當山縁起に曰往昔此地に池あり慶念と謂う者いか成故にや入水せしとなん夫より慶念の霊魂夜毎に出て人民魂を痛しむ成佛得脱の為に彼池を埋平地になし恵心僧都長徳三年丁酉千體の地蔵菩薩を一宇を草創して慶念山誓願寺と云其後建久年中に當寺に於て浄瑠璃御前佛果菩提の為十王を建立し玉い中尊に子安延命地蔵菩薩一刀三礼恵心作小野?直作の十王を安置し義経浄ルリの像を篭置佛事勤行たいまんなし其後誓願寺は兵火の為に焼失し十王堂併千體のみ残といえども代々押移りて大破する事数度に及びし千躰の尊像も数多失玉い今はわずか残りて矢作千躰と?仰し奉るなり」
 石地蔵 台座に文政六年癸未初秋十二日鳳山世代の銘
 手水鉢 元禄四辛未歳十一月十五日加月祐日代の銘
 浄瑠璃姫塚 五輪左右に冷泉十五夜の石塔あり
 道標石 門前に在之浄瑠璃始末を撰石に?刻して建つ」

 門前道標石の刻字

 石塔の南面には「浄瑠璃姫菩提所」と刻され、台座には「義経像 志やうる里こせん像并石塔」と刻されています。
 石塔の東面には「南無阿弥陀仏」と刻され、台座には「兼高長者建立 十王堂 恵心僧都御作 千體地蔵菩薩像」と刻されています。
 石塔の西面には「南無阿弥陀仏」と刻され、台座には「子安地蔵菩薩 恵心僧都 一刀三禮御作 十王 小野篁御作」と刻されています。
 石塔の北面には「浄瑠璃姫菩提所」の縁起が刻され、台座には「寶暦八年二月十五日 三州碧海郡 矢作十王堂 誡誉教圓法阿代」と刻されています。
 「浄瑠璃姫菩提所」の背面の刻字
 「浄瑠璃者三河矢橋豪富兼高女也初兼高無之詣鳳来寺祈薬師瑠璃光佛者夢祥以生之美而艶有玉以名焉安四年源義経興行賈橘信高?東兼高之門聞絃歌声因出臺中笛爲皷一再行浄瑠璃好者竊徒隙窺心悦而好之乃令侍人固留兼高亦知非常人欲竒其女納之将行謂浄留里曰待我贈以所稱淡墨之良管去浄瑠里使營篠谷不窺外数年日夜感念之義経終不來悶施自投菅生水時二十五即今浄留里渕其死所也以壽永二年三月十二日葬之慶念山誓願寺法縊(謚の誤り)曰醫誓法女兼高悼之建立中爲立十王堂其寺求小野篁作十王及恵心作地蔵菩薩像安焉遠献曰野史所載建立際可知也如鬼一女技?事何其詳也余以師箕各先數々來岡崎登兼高故阯過浄留離渕而尋慶念山誓願寺蓋云某寺長徳三年恵心僧都爲投池沈慶念事驕X怖人自埋其池作地蔵菩薩像千安焉之所起也後久而千像及兼高十王堂今猶存焉而其文不少概見何哉豈遺甚顕然乎人口而存其易煙滅老乎史乗口碑又奚擇焉寶暦八年戊寅十月十五日遠溪海醫平遠献士格又爲三河橋十王堂主事者結撰 南無阿彌陀佛浄留離菩提所 南無阿彌陀佛」



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