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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 岡崎矢作神社 YAHAGIJINJA

 矢作町字宝珠庵に鎮座する九等級矢作神社(やはぎじんじゃ)は、矢作町氏子の氏神様(鎮守)です。

  社標に、「郷社矢作神社」、「縣廰へ九里十二町十六間 碧海郡矢作町」、「明治三十五年十月建立」、「鎮座字宝珠庵境内 反別三反九畝四歩 寄附人 黒田謙吉 浅井鹿次郎 中根七三郎 都築竹次郎 嶌田庄五郎 新實正太郎」と刻されています。

  元は現在の字祇園に鎮座していた牛頭天王(通称天王様)でしたが矢作川の洪水により度々流出し、九代目岡崎城主本多伊勢守藤原忠利の時代に終に再建を諦めて宝珠稲荷寺の境内(現在の勝蓮寺境内辺り)へ堂宇を設けて移されました。

  後年宝珠稲荷寺が廃れて主客が入れ替わり、牛頭天王に宝珠稲荷寺の鎮守稲荷天神が合祀されて宝珠稲荷寺の本尊だった薬師如来像は勝蓮寺に安置されました。

  現在の字祇園及び字竊樹の字は牛頭天王が鎮座した境内及び三代目岡崎城主松平広忠(徳川家康の父)が天文年中(1532〜1554)に祀田二十石を置いた所だったことに由来し、字宝珠庵の字は宝珠稲荷寺が在ったことに由来ます。

 松平広忠は世継ぎ後に命を狙われて一時国外へ逃れていましたが、天文十一年五月十一日(1542・7・3)に叔父の松平信孝及び康孝兄弟などの協力があって岡崎城へ帰城し、その五年後の天文十六年九月二十八日(1547・11・20)に叔父松平信孝と渡理川原で戦うことになりこれに勝利しました。

  病身だった広忠はこの頃に牛頭天王を再建して祀田二十石を置きましたが、天文十八年三月六日(1549・4・13)に病死しました(家臣岩松八弥に刺された怪我が原因だったとする説や刺殺されたとする説もあります)。

  また、牛頭天王を宝珠稲荷寺の境内へ移した後、その跡地の北方の野畑と称された田畑の一画にいつしか祠が祀られて天王さんと称されるようになり、明治の時代に至り天王さんは祇園社と改められて地名の野畑はそのまま字に転訛し字野畑となりました。
     
 後に字野畑は字竊樹となりましたが、現在の字末広の旧名字盗人木に鎮座したのが竊樹大明神で竊樹は盗人木に合うことなどから考えると、旧字野畑の一部が何故後に字竊樹になったのかその経緯は謎で時期も近年のことでありながら全く判りません。
     
  慶応四年(1868)の神仏分離令により神仏習合色が廃されて矢作の牛頭天王は社名を矢作神社と改め、祭神を素戔嗚尊としました。

  明治五年の神社調査の際の九月十七日に、鎮座地碧海郡矢作村字宝珠庵一番、社名矢作神社、祭神素戔嗚尊(すさのおのみこと)及び豊受大神(とようけおおかみ)、例祭日十月に日として神社明細帳を提出し、その翌年に碧海郡矢作村郷社となりました。

  明治二十六年(1893)二月十九日に、碧海郡矢作村は町制を施行して碧海郡矢作町となり、明治四十年十月に郷社矢作神社は神饌幣帛料供進神社に指定されました。

  矢作神社には豊受大神(とようけのおおかみ)と同神の保食神(うけもちのかみ)が合祀されていますがこれは字加護畑に在った稲荷天神の祭神であり、何故八幡社に合祀されなかったのか又どのような経緯で矢作神社へ合祀されたのかはその時期とともに不明です。

  「新田義貞が牛頭天王の神前に戦勝を祈願した」という伝説がありますが、 実はこれは新田義貞が源八幡太郎義家の九代裔で源氏一族は日頃八幡神(八幡菩薩)を篤く信仰していたことから、元来は八幡社の由緒として伝えられていたものです。

 「新田義貞が加護の文字を大書した旗を河岸に立てた」という伝説は現在の字加護畑の地名の由来であるとされていますが、字加護畑は字宝珠庵の南西隣に当りその東側には字市場があり更にその東側が矢作川です。

 現在の字加護畑辺りの元の地名は明治時代に至っても篭中(かごなか)と称されており、大正時代以後にその端に当たる所を篭端(かごはた)と称するようになったことに始まりますので、新田義貞が建てたという加護の旗の伝説と繋げるには無理があります。

愛知縣碧海郡神社寫眞帖(愛知縣碧海郡神職會 昭和二十四年二月十一日發行)


平成二十四年五月三日撮影


 矢作神社社標

矢作神社社殿(平成二十一年一月撮影)


 矢作神社の由緒碑

 境内の矢作神社の由緒碑には、次のように刻してあります。

  矢作神社
  鎮座地 愛知県岡崎市矢作町字宝珠庵壱番地
  祭 神 素蓋鳴尊 豊受大神 保食神
  例 祭 十月二日
  由 緒
第十二代景行天皇の御代に日本武尊が東夷御征伐の時、軍神として素蓋鳴尊をお祀りし広前で矢を矧ぎ給いしため社号を矢作神社と称えた。社前の矢竹はそのいわれの跡といわれている。永保三年(一○八三)源義家が陸奥守として奥州へ征伐に行く途中日本武尊の故事にならって参拝されたと伝えられている。その後建武二年乙亥(一三三五)新田義貞が足利尊氏との戦いで戦勝を神前に祈願した折社畔の石が鳴動した。これは神のご加護があると信じて大いに戦い遂に勝ちを収めたといわれている。伝えて「うなり石」として拝殿の西南に在る。天文年中(一五三二−五四)岡崎城主松平廣忠は祀田二十石を置いたが当社は中古より矢作橋改築毎に城主及普請奉行から奉弊寄進するのが例であったという。第一次世界大戦後帝国軍艦矢矧艦長以下船員一同の崇敬篤く艦内に矢作神社の分霊を奉斎して大祭を執行し又兵員一同正式参拝も行われ軍艦矢矧の模型を奉納されている。中古牛頭天王と称したが維新後旧名の矢作神社に復した。明治五年九月十七日郷社となり明治四十年十月には神饌幣帛料供進神社に指定せられた。
秋葉神社には迦具土命を奉祀す。

矢作神社由緒(平成二十四年三月撮影)


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