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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 「矢作川之勝景」の碑

 古来、即位の礼が七月以前に行われた場合は当該年に大嘗祭(おおむべのまつり)が行われ、八月以後に行われた場合は翌年に大嘗祭が行われました。
 天安二年八月二十七日(858/10/11)に即位された第五十六代清和天皇は、貞観元年十一月十六日(859/12/17)に大嘗祭が行われました(日本三代実録二巻)。
 清和天皇の大嘗祭の時の主基斎田は美作国英多郡(現岡山県英田(あいだ)郡)で、悠紀斎田は三河国幡豆郡(現愛知県西尾市)でしたが地名は定かでありません。
 斎の文字が用いられていた村に斎藤村(現福地町)があり、
 古に戸は処の借字で斎戸という所があり此処が斎藤村(現西尾市福地町)になったことや三河国古歌名跡に秋の寝覚め長田があり此処が丁田村(現西尾市丁田町)になったことから、この何れかの村名が斎田のあったことに由来するのではないかと考えられていますが、現在では幡豆郡が悠紀斎田に勅定されたことがあったことさえ知られていないようです。

 天皇が毎年十一月に行う収穫祭を新嘗祭(にいなめさい)といいますが、このうち即位の礼を終えた天皇が初めて行う新嘗祭を特に大嘗祭といい、現在では「だいじょうさい」と読みます。
 大嘗祭は、京都仙洞御所庭内に悠紀(ゆき)殿(東側)及び主基(すき)殿(西側)の祭場が設けられそれぞれ新穀を神前に供する神事で、京都を中心として東日本に悠紀斎田、西日本に主基斎田が勅定され、この斎田で収穫された新穀が神前に供されます。
 大正四年(1915)十一月十日、大正天皇即位の御大典礼が行われ、続いて十四日には即位後初めての新嘗祭である大嘗祭が行われました。
 この時の大嘗祭では、東日本の悠紀斎田に愛知県碧海郡六ツ美村大字下中島字上丸之内(現岡崎市中島町)の早川定之助所有地が勅定され、西日本の主基斎田には香川県綾歌郡山田村(現綾歌郡綾川町山田上)が勅定されました。

 即位の礼及び大嘗祭を併せて御大典又は御大礼と称しますが、御大典又は御大礼のとき使われる悠紀殿の屏風には悠紀の斎田に定められた地方の風景を描く習わしがあり、大正天皇御即位の御大典には碧海郡六ツ美村が悠紀の斎田に定められてその新穀が献納されました。
 このとき使われた屏風絵には、野口小蘋(のぐちしょうひん)女史によって悠紀地方の風景「冬の景に矢作川千鳥あり」の絵が描かれ、黒田清綱翁が詠んだ「御屏風絵矢作川千鳥をよめる」と題した和歌が書き添えられました。

 愛知県は御大典記念としての標柱建立を奨励し、岡崎石匠酒井家六代目で岡崎狛犬の生みの親といわれる酒井孫兵衛がこのことを後世に伝えるため、大正五年(1916)に屏風絵に書かれた黒田清綱の和歌を刻しその背面に経緯などを刻した石碑を矢作町字宝珠庵の「十里堤成萬民皷腹」の石柱の近くに建立しました。
 その前面には「矢作川之勝景 愛知縣 大嘗祭悠紀殿御屏風繪 矢作川千鳥をよめる 矢はき川 弓はり月の かけさして きよきなかれに 千鳥鳴く也 正二位源清綱」と刻まれています。

 「矢作川之勝景」の碑及び「十里堤成萬民皷腹」の碑の往時(左)の様子と現状(右)
 

 「矢作川之勝景」の碑文

 前面
  矢作川之勝景 愛知縣
   大嘗祭悠紀殿御屏風繪
         矢作川千鳥をよめる
  矢者き川 弓者り月の
        可けさして
   きよ起なかれ尓 千鳥鳴く也
        正二位源清綱
 背面
  此川發源於信濃蜿蜒南流而過我 邑終注衣浦傳云徃昔日本武尊東
  征作矢於此地因名矢作川名亦從 焉其當官道處有一大橋其名夙著
  沿岸之風光亦絶佳古來吟詠頗多 今當大典辱入悠紀殿御屏風而小
  蘋畫焉清綱詠焉山水之美倍顯乃 建碑以傳後世云
                 大正五年十一月 酒井孫兵衛刻

 黒田清綱プロフィル

 「矢作川弓張月の影差して清き流れに千鳥鳴く也」という和歌を詠んだ源清綱は、佐々木源氏流支族の後裔の黒田清綱です。
 黒田清綱は、天保元年三月二十一日(1830/04/13)に薩摩藩士の父黒田清直及び母守夫妻の長子として生れ、慶応四年(1871)に弟の島津藩士黒田清兼の子清輝を養嗣子としました。
 清輝は慶応二年(1866)六月二十九日に鹿児島高見馬場で生れ、後に近代洋画家となって「湖畔」が有名です。
 清綱は清輝を養子に迎えていますが、庶子に黒田清秀がいます。
 藩校造士館で学んだ後、藩主島津斉彬に気に入られて史館に入り西郷隆盛とも親交が厚かったようです。
 薩摩藩の国学者・歌人である八田知紀に和歌を学び、同門の高崎正風が没した後は、明治及び大正両天皇の和歌の指導に当りました。
 養子の甥清輝に家督を譲りましたが、清輝は留学中に西洋画を志して明治を代表する洋画家となったため、麹町の滝園社を庶子の清秀が継承しました。
 大正六年(1917)三月二十三日没、享年八十八歳。

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