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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。
矢作町界隈記
TEL.
0564-31-****
〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所
花の撓
日本では紀元前四六六年又は同五六四年の旧暦四月八日が釈迦の生誕日として伝承され、四月八日、旧暦四月八日又は月遅れの五月八日のいずれかに、潅仏会(かんぶつえ)、釈尊降誕会(しゃくそんこうたんえ)、仏生会(ぶっしょうえ)、浴仏会(よくぶつえ)、龍華会(りゅうげえ)又は花会式(はなえしき)などと称する釈迦の誕生を祝う仏教行事が行われます。
これに豊年祭の神事が習合して「花の撓(はなのとう)」と称され、全国各地で親しまれる行事となりました。
近年では花の塔や花の頭などと記されますが、「撓」の文字は「稲穂が実って撓(しな)う」という意から当てられたもので、花御堂、花祭り又はおためしなどとも呼ばれます。
この日は、寺院本堂の御本尊前に花御堂(はなみどう)を安置し、誕生仏に甘茶を潅いで釈尊の誕生をお祝いします。
また、熱田神宮では一月七日に行われる世様神事(よだめししんじ)とともに、五月八日にはその年の農業を占う重要な祭りとして、日本武尊が御東征の折当地方に農耕、養蚕及び培綿の技術を伝えられた御神徳を称え感謝する豊年祭が行われます。
この豊年祭の折には、神職によっておためし所と称される西楽所に畠所と田所を模した飾り物(おためしと称する)が造られて五日間一般に展覧され、農業関係者はこのおためしを観てその年の作柄を占います。
岡崎市矢作町の花の撓は、おためし又は花の塔とも呼び記されて慶念山誓願寺を中心に旧東海道筋で古くから旧暦四月八日に行われました。
明治五年(1872)から新暦(太陽暦)が使用されるようになったことから、明治六年(1873)以後は月遅れの五月八日とその前日の七日の両日に行なわれるようになりました。
誓願寺本堂の御本尊前に置かれた花御堂には、高さ二十糎程の誕生仏が安置されてその誕生仏に甘茶を潅ぎ釈尊の誕生をお祝いします。
誓願寺の境内には熱田神宮のおためし所に倣った飾り物小屋が東西にあります。
岡崎市史によると、花の撓の前日に準備のため世話役が集まって建物を組み、七日の早朝に世話役の代表者が一番電車で熱田神宮の豊年祭りを見に行き、書き物(作り物と言う)を貰ってきてその作り物の写しを作り、これを近郷の人が見に来て、それぞれに作物の豊凶を占いました。
大正末から昭和にかけては、刈谷市辺りからも腰弁当や手弁当などで出かけてくる人もあり、道路を動けないほどの人出がありもの凄い混雑を見せたといいます。
昭和五十八年の作り物の写しは、人参、牛蒡、柿、蕪があり、蔵には封(米の貯蔵を表す)がしてあって、西側の人の着衣に白が出ており東側は青で、地元のある人の「お試し」によれば、人参、牛蒡、柿、蕪がよくでき、米も豊作であるが、東の方では雨が多いのではないかということで、白色は風が吹き、青色は雨が多く、赤色は照るということを示しているのだそうです。
昭和の時代までは街道では花や植木の市も盛大に開かれ、矢作商店街振興組合の春の商工祭りの協賛で、草花の無料配布が行われたりすると行列ができたりしました。
昭和時代の終わり頃からは五月初めの第二土曜日及びその翌日の日曜日の二日間行なわれるようになり、地元の城西高校の生徒が中心になって四百年以上続いているというこの祭りを盛り上げ継続しています。
誓願寺境内にある熱田神宮おためし所の書き物写しは当寺の住職によって作られるようになり、平成二十三年からは五月八日のみ一日の開催となりました。
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