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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 廃瓦塔と石田茂作 

 慶念山誓願寺(矢作町字馬場)の境内北西隣りに廃瓦七重塔があり、その隣りには文明十三年銘の十三仏板碑が安置されています。

 廃瓦塔

 廃瓦塔は、石田茂作の生家がリフォームを行った時の廃瓦の処分について、石田は先祖代々が雨露を凌がせて貰った屋根瓦を不要になったからとて破棄するのに忍びず何か保存する方法はないかと思案の末、岡崎市梅園町二丁目にある春谷寺が屋根の葺き替えを行った時の廃瓦を円塔形に積んだものが境内にあることを思い出しこれをヒントにして建立したもので、塔内部には親類、故旧、友人及び先生等の有縁の法名又俗名を小塔に墨書して納めたといいます。
 塔の周囲は、石田の浄土曼荼羅庭園のアイデア及びその妻の百樹園の希望などを取り入れて造園とされましたが、現在では管理する人もなく荒廃しています。



 十三仏板碑

 十三仏板碑(文明十三年銘)は、石田が奈良博物館にいた頃の友人山岡ヌ兵衛から贈られたもので、石田が奈良を去る時に矢作町の実家へ送って置いたものといいます。
 十三仏は、十三の仏事に割り当てたそれぞれの明王、如来及び菩薩で、下段右から初七日(不動明王)、二十七日(釈迦如来)、三十七日(文殊菩薩)、四十七日(普賢菩薩)、五十七日(地蔵菩薩)、六十七日(弥勒菩薩)、七十七日(薬師如来)、百ヶ日(観世音菩薩)、一周忌(勢至菩薩)、三回忌(阿弥陀如来)、七回忌(阿?(あしゅく)如来)、十三回忌(大日如来)、三十三回忌(虚空蔵菩薩)までを種字(種子とも書す)が刻されます。
 この十三仏信仰が庶民の間に広まったのは中世(鎌倉時代の始まりとされる文治元年(1185)から足利義昭が織田信長に追放された天正元年(1573)までの頃)の半ば頃からとされます。
 板碑は、死者の追善供養や後世の安楽を願って造立された供養塔で板石塔婆とも呼ばれ、一.不動明王、二.釈迦如来、三.文殊菩薩、四.普賢菩薩、五.地蔵菩薩、六.弥勒菩薩、七.薬師如来、八.観世音菩薩、九.勢子菩薩、十.阿弥陀如来、十一.阿?如来、十二.大日如来及び十三.虚空蔵菩薩の十三仏の種字が刻されています。
 板碑に刻されている十三仏種字の配置は、虚空蔵菩薩を頂点として、その下四段各三仏又は上段、中段及び下段に各四仏を刻み右下の不動明王で終わるものや上段及び中段に四仏、下段に五仏を刻むものがあり、右下を虚空蔵菩薩で終わるものもあります。
 板碑の材質や形状は、各地方で使用する石材や形態が異なるが全体的には長方形の板状で最上部は三角形の山型に造られその下部に二条線や切り込みを施して主体部と区別され、主体部には十三仏の種字、天蓋、蓮台、花瓶などの文様や紀年銘や供養者名などが刻まれています。
 板碑の発生は、十三仏信仰の広まりが鎌倉時代の頃と推測されていることや埼玉県に最古と目される嘉禄三年(1227)の板碑があること及び鎌倉幕府の衰退に伴ってその風習が薄れたことなどから武蔵国中北部辺りから徐々に全国へ広まったものと考えられ、江戸時代以後は板碑に代って五輪塔その他の墓石の建立が一般的となりました。

 石田茂作

 石田茂作は、明治二十七年(1894)十一月十日に愛知県碧海郡矢作町で生まれ、愛知県立岡崎中学校、東京高等師範学校国語漢文科を経て、大正十二年(1923)に東京高等師範学校専攻科を卒業しました。
 昭和十六年七月に東京帝国大学から文学博士の学位を授けられ、昭和二十二年五月からの国立博物館陳列課長、昭和二十六年二月からの東京国立博物館学芸部長を経て、昭和三十二年三月から八年間は奈良国立博物館長を勤めました。
 昭和四十二年(1967)に勲二等瑞宝章授章、昭和四十九年(1974)十一月に文化功労者に選ばれたほか、中日文化賞、奈良県文化賞、朝日文化賞を受賞し、岡崎市名誉市民となりました。
 仏教考古学の先駆者としてその体系樹立に寄与し、その研究範囲は古瓦と寺院址、塔婆、経塚、仏教法具、写経、正倉院宝物等多岐に亙ります。
 石田茂作が生涯を通じて収集した古瓦拓本資料は二万点を越え、寺院址発掘調査に尽力して昭和十四年の若草伽藍址の発掘は、明治以来の法隆寺再建非再建論争に決着をつけ飛鳥時代古瓦の編年にも修正を加えることになりました。
 戦後の寺院址発掘調査には、丹波周辺山廃寺、静岡県庁片山廃寺(駿河国分寺)(24・31年)、下総長熊廃寺、武蔵国分寺、出雲国分寺、法輪寺講堂址、法隆寺聖徳会館建設に伴う事前調査、法起寺、中宮寺址、愛知県北野廃寺、徳島県立光寺址などがあり、調査及び研究成果の著述書が数多くあります。
 雅号を瓦礫洞人と称し、学徳兼備の人と称された仏教考古学者及び文学博士でした。
 昭和五十二年(1977)八月十日、肺炎のため東京都千代田区神田淡路町の同和病院で死去。享年八十四歳。


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矢作町界隈記

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