矢作町字宝珠庵に鎮座する十五等級八幡社(はちまんしゃ)は、矢作町二区氏子の氏神様(鎮守)です。
社標に刻されている「八幡宮」の社名は旧名の名残による通称名で、神社庁に登録されている社名は「八幡社」です。
元は下馬八幡宮と称して現在の矢作町字羽城の地の田圃の中にありましたが、弘化二年(1846)に水難を避けて牛頭天王(現在の矢作神社)に近い現在地(字宝珠庵)へ遷座されました。
現在の矢作町字加護畑の地には「往昔矢矧橋の修造の節は橋に用いられ朽ちた古材を積んで置くことが古例になっていた所があり、後年此処へ神祠を建てて柱朽天神と崇め奉るようになったという」と伝えられる柱朽大明神が祀られていました。
慶応四年(1868)の神仏分離令により神仏習合色が廃されて、明治元年八月に下馬八幡宮の社名を八幡社と改め祭神を應神天皇とするとともに、字加護畑にあった柱朽大明神の社名を柱口社と改めて八幡社の境内へ合併し祭神を天御柱神及び地御柱神としました。
明治五年十月の神社調査の際に、「鎮座地碧海郡矢作村字宝珠庵、社名八幡社及び柱口社(境内社)、天御柱神及び地御柱神の三座、例祭日八月十五日」として届け出て、碧海郡矢作村員外社(無格社)となり、明治八年一月に据置公許(廃社にされないこと)となりました。
大正五年八月七日に境内の別社柱口社(元の名は柱朽大明神)の祭神天御柱神(杭頭頂部)及び地御柱神(杭先端部)を八幡社へ合祀されました。
東から二番目の橋脚の中杭を神君柱とされたといいます。
八幡社の社殿に江戸時代の矢作橋の西から二つ目の脚柱のものと伝えられる頂部及び底部の部分が安置されていますが、これは境内の別社だった柱口社の祭神天御柱神及び地御柱神を合祀したことによるものです。
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