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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 矢作町二区八幡社 HACHIMANSHA

 矢作町字宝珠庵に鎮座する十五等級八幡社(はちまんしゃ)は、矢作町二区氏子の氏神様(鎮守)です。

 社標に刻されている「八幡宮」の社名は旧名の名残による通称名で、神社庁に登録されている社名は「八幡社」です。

 元は下馬八幡宮と称して現在の矢作町字羽城の地の田圃の中にありましたが、弘化二年(1846)に水難を避けて牛頭天王(現在の矢作神社)に近い現在地(字宝珠庵)へ遷座されました。

 現在の矢作町字加護畑の地には「往昔矢矧橋の修造の節は橋に用いられ朽ちた古材を積んで置くことが古例になっていた所があり、後年此処へ神祠を建てて柱朽天神と崇め奉るようになったという」と伝えられる柱朽大明神が祀られていました。

 慶応四年(1868)の神仏分離令により神仏習合色が廃されて、明治元年八月に下馬八幡宮の社名を八幡社と改め祭神を應神天皇とするとともに、字加護畑にあった柱朽大明神の社名を柱口社と改めて八幡社の境内へ合併し祭神を天御柱神及び地御柱神としました。

 明治五年十月の神社調査の際に、「鎮座地碧海郡矢作村字宝珠庵、社名八幡社及び柱口社(境内社)、天御柱神及び地御柱神の三座、例祭日八月十五日」として届け出て、碧海郡矢作村員外社(無格社)となり、明治八年一月に据置公許(廃社にされないこと)となりました。

 大正五年八月七日に境内の別社柱口社(元の名は柱朽大明神)の祭神天御柱神(杭頭頂部)及び地御柱神(杭先端部)を八幡社へ合祀されました。
 東から二番目の橋脚の中杭を神君柱とされたといいます。

 八幡社の社殿に江戸時代の矢作橋の西から二つ目の脚柱のものと伝えられる頂部及び底部の部分が安置されていますが、これは境内の別社だった柱口社の祭神天御柱神及び地御柱神を合祀したことによるものです。


愛知縣碧海郡神社寫眞帖(愛知縣碧海郡神職會 昭和二十四年二月十一日發行)


平成二十四年五月三日撮影


平成二十四年三月撮影


 柱口社

 柱朽大明神の呼称はいつしか柱口大明神とも呼び記されるようになっていたことから、維新後に柱口社の社名に改められました。

 柱朽大明神には稲荷明神が勧請されていたという説がありますが八幡社へは合祀されていないので、どのような経緯があったかは不明ですが牛頭天王に旧稲荷明神二座が合祀されていることから、祭神保食神は柱朽大明神に在ったものである可能性が高いようです。

 神明名帳に載る「額田郡式外社正五位柱津天神」について、参河志第四巻神明名帳に「今加茂郡柱野村あり當郡の境也可考」と載せ、参河聰視録に「柱積天神の略称なるか云々」と載せていますが、これは柱朽天神とは全く関係がありません。

 岡崎市柱町の綿積神社の境内社にある柱津天神社の祭神は柱津彦命で、柱口社の祭神天御柱神及び地御柱神とは因果関係のない全くの別神であることから、柱津天神が柱積天神の略称なるものということも考え難いことです。



 境内の寄進石造物類

 八幡社の社殿前にあった二基の石燈籠の銘に曰く「奉納下馬八幡宮 天保二辛卯十二月吉日 奉納八幡宮 弘化二巳十二月吉日再建す 取持若衆」と刻されていたといいます。

 現在その石燈籠の存在は確認できませんが、社殿の東側に刻字の跡が全く判らない石燈篭の一部が残置されているのでこれかも知れません。

 現在ある社殿前の石燈籠は「奉 御大典記念 伊奈信太郎 松下勝太郎」及び「納 昭和三年十一月 杉山健二 本澤吉五郎」と刻されたものが一対あり、その手前に「献燈 御大典記念 徳倉太郎吉」及び「献燈 昭和三年十一月 伊吹健吉 徳倉太郎吉」と刻されたものが一対あります。

 この燈籠は、昭和二十年一月十三日午前三時三十八分に愛知県の三河湾で発生した地震の影響で倒壊したため作り直されたものです。

 元の石燈籠の残骸は境内の西側端に残置されていて「献燈 御大典記念 徳倉太郎吉」と読める部分があります。

 社殿前にある石造の狛犬一対は柱朽大明神に在ったもので、東側の台座には「奉納 石丸大和 竹内忠兵衛」とあり、西側の台座には「高木吉次郎井口勘之丞 文化十四丑年九月吉日 作人岡崎裏町酒井松三郎」とありましたが現在では殆ど読み取れません。

 この狛犬及びその台座を載せている基部には「室戸奉納 岡崎五郎 伊奈信一郎 前田由太郎 石原琢弥 原田由太郎 昭和三年二月修築」と刻されています。

 境内にある二つの手水鉢は柱朽大明神に在ったもので、一つは「奉納文化 年 月 日」のみ推読ができますが、別の一つは刻字がないのか全く読めません。

 また、新しい鳥居の手前の石燈篭は「御大典記念 昭和三年十一月 岡崎本町高木繁三郎 寄附人高木新七」とあります。

 社殿に近い灯籠の前に在る玉子型のような石は「玉子石」と称されて、元は柱朽大明神の社殿前左右に二つ在ったそうですが、現在あるのは一つだけで、その側面には東組と刻してあり上面には「四十貫目」と刻してあります。

 長老の伝によれば「この石は力石と称されて大東亜戦争の時徴兵検査に用いられたがそれ以前のことは判らない」ということです。

 追記(2015/10/02)
 当管理人の親戚筋の長老からこの石のことの情報を得ることができました。
 大正の時代になってってから流行りだしたことで、何処の庭先にも一個や二個のバンモチと称する六貫目位のものや二十五貫目位のもの、重いものでは四十貫目位の丸い石が置いてあり、お互いの家に遊びに行って片手差しで差し上げたり担いだり、特に重いものはどれだけ歩けたかなどして力試しを楽しんだものだそうです。
 バンモチに使われる石が「盤持石」で「力石」と呼ばれたり、神社に置いてあったりした地域もあったようです。
 呼び名が判れば調べることができるので、調べてみると文献もあり各地にあったことが解ります。

 なお、字破城(現在の字羽城)の田圃の中にあったとされる穐葉(あきば)権現は八幡社には合祀されず、牛頭天王へ合祀さました。

 このため、現在の矢作神社の祭神には素蓋鳴尊のほかに食物及び穀物を司る女神である豊受大神及び保食神の同神二座があります。

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