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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 矢作町四区竊樹社 HISOKOSHA

 矢作町字祇園百六番地に鎮座する十五等級竊樹社(ひそこしゃ)は、矢作町四区の氏神様(鎮守)です。

 竊樹社の境内にある社標には「竊樹神社」と刻されていますが、神社庁に登録されている社名は「竊樹社」です 。

 社標の寄進者は矢作町西河原五番地出身の人で、東京で就労していた頃に寄進されたことから社標には「大正十一年三月、寄附人東京新海遥平」とあります。

 神社(かみやしろ)のことを総じて通称では神社(じんじゃ)と称しますから、社標が通称名で建立されているのは何処にでもある一般的なことです。

 この竊樹社の祭神は加茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)で、別雷は若雷(わかいかづち)でもあり、若々しい力に満ちた神鳴り(かんなり)の神様という意味があります。

 三代目岡崎城主松平広忠(徳川家康の父)が天文年中(1532〜1554)に祀田二十石を置いた牛頭天王(通称天王様)は矢作川の洪水により度々堂宇を流出し、九代目岡崎城主(三代三河岡崎藩主)本多伊勢守忠利の時代(1623/11〜1645/01)に宝珠稲荷寺の境内(現在の矢作神社境内)へ堂宇を設けて合併されました。

 後年、牛頭天王境内の跡と伝わる一角の街道沿い側にできたのが加茂大明神の社で、嘉永七年(1854)六月には山車を制作していますから、加茂大明神の社が勧請されたのは正保二年(1645)から嘉永七年(1854)までの二百九年の間ということになります。

 東海道が通っていた上矢作村に上之切組及び上中之切組があり、下矢作村に下中之切組及び下之切組があって、上矢作村中之切組に在った牛頭天王の祭礼日には街道及び牛頭天王の境内で山車を引く四つの祭組がありました。

 また、各祭組にはそれぞれ加茂大明神、彌五郎殿、八幡大明神及び八剱大明神の社がありました。

 上矢作村上之切組の加茂大明神の北方にはその昔、正三位の位階を有し参河國内神明名帳に載る櫃竊大明神(ひつこそだいみょうじん)がありました。

 「櫃(ひつ)」は米やご飯を入れる蓋の付いた入れ物のことで、「竊」は「こっそりと盗む」ということから、蔵には鼠に食われても判らないほど沢山の米を蓄えさせて貰っている農耕神の櫃竊大明神を崇め奉るというものです。

 鼠は干支では子であり、子の本来の読みは「し」であり植物が子孫を増やそうと成長し始める種子の状態を表すと解釈されて、一家の子孫繁栄の縁起物としても捉えられています。

 伝説に「矢作村に古城二ヶ所あり、島田弾正と島田出雲守平蔵の世に両島田と号す。島田氏は美濃土岐氏の庶流が参州へ来て姓を島田と改め矢作に住して松平広忠及び家康に仕え二十四村を領した」とあります。

 櫃竊大明神を崇敬した島田弾正はその東隣を居館としていましたが、永禄六年(1563)に起こった三河一向一揆以後に何処かへ転ぜられたのかその後の活躍の記録が見られなくなります。

 櫃竊大明神は僅かに残った地元農民によって給仕し守り継がれていましたが徐々に廃れ、櫃竊大明神の名はいつしか文字が入れ替わって「竊櫃大明神(ひそかぎだいみょうじん)」と呼び記されるようになりました。

 更に「櫃」の文字が「樹」の文字に書き誤まられるようになって竊樹大明神(ひそかぎだいみょうじん)」から「ひそこそのだいみょうじん)へと転化していきました。

 文政十一年(1828)に矢作川の大洪水があって、右岸側の両矢作村は未曾有の大惨事となり、この時竊樹大明神の堂宇は周辺の家屋などと共に流失してしまいました。

 上之切組の南部は寺の畑だった所で、この地を田地に造成している時、本郷村神明社の南東数百米の所で土砂の中から祠が発見され、これを掘り出してその場に何処の祠かが判らないまま安置しその脇に榎、榊などの木数本を植えてこの辺りの守り神としました。

 この地の北方の街道沿いに加茂大明神が鎮座していたことからこの祠は下加茂大明神と呼ばれたり、上矢作村と本郷村との村境近くに在ったことから境目明神とも呼ばれていました。

 間もなくこの祠は竊樹大明神のものだったことが判ったことから「ひそこそのだいみょうじん」とも呼ばれました。

 田地の造成が進んで検地を受けることになった時、検地役人から地名を聞かれた農民は竊樹大明神の名を貰うことにして「ヒソコでございます」と答えると、役人から「其処ではない。此処の地名だ」と怒鳴られました。

 慌ては農民は「ぬすっと(竊)に、き(樹)と書くのだそうでヒソコと申します」と答え、検地役人が検地帳に「盗人木」と記帳したことから、これ以後はこの寺畑の地は盗人木と呼び記されるようになりました。

 明治の半ば頃に小学校ができるまでは読み書きのできない人が多かった時代でしたから年配者の地元農民は旧来通りに寺畑と呼んでいたようですが、明治十一年以降は字盗人木が正式な地名となりました。

 通称上加茂大明神とも呼ばれるようになった街道沿いの加茂大明神は、俗にサブサの神とも称したと伝えられますがサブサの意味は不明です。

 また、「竊樹大明神(ひそこそのだいみょうじん)」は、口伝誤りからいつしか「ひそこだいみょうじん」と呼ばれるようになりました。

 慶応四年三月十三日(1868・4・5)、維新政府は太政官布告神仏判然令により神仏習合色を廃し、全国の神社を掌握するための神社調査を進めることになりました。

 明治四年(1871)五月十四日、各地の神社の調査結果に基づいて太政官布告「官社以下定額・神 官職制等規則」が公布され、神社の格を官社及び諸社に大別し、官社として九十七社が列格されました。

 官社には官幣の大中小社及び国幣の大中小社があり、官幣社は神祇官が祀り、国幣社は地方官が祀るものとされました。官幣及び国幣の名称は延喜式神明名帳の社格を踏襲したものです。

 諸社には、府社、藩社、県社及び郷社が置かれましたが、藩社は同年(1871)七月十四日の廃藩置県によって藩が消滅したため実際には列格されることはありませんでした。

 また、官社として列格した九十七社以外に官幣又は国幣の大中小 社のいずれにも分類できない神社があることが判明したことから新たに別格官幣社の制度が導入されました。

 同年(1871)七月四日には、郷社定則により郷社の附属として郷社の下に村社が新設され、この官社、諸社、別格官幣社又は村社のいずれにも至らない神社を最下位に列格して無格社とされました。

 明治三年三月二十八日(1870/04/28)、天皇が東京城に入り東京城を「皇城」と称することとされました。

 明治五年一月(1872・02)、上矢作村及び下矢作村はそれぞれ西矢作村及び東矢作村に改称され、祭組名も上之切が西之切に、上中之切は西中之切に、下中之切は東中之切に、下之切は東之切にそれぞれ改められました。

 明治五年十月の神社調査に際し西之切組は、旧加茂大明神を「社名加茂社、鎮座地碧海郡矢作村字祇園百六番地、祭神加茂別雷大神、例祭日五月十五日」とし、旧盗人明神はその前身が竊樹大明神のものだったという伝説に基づき「社名竊樹社、鎮座地碧海郡矢作村字盗人木三百二十九番、祭神御気津神、例祭日九月十八日」として提出し、その翌年にいずれも矢作村無格社として列格されました。

 「無格社」とは、明治政府が定めた官社、諸社及び無格社の社格のうち村社に至らない最下位に格付けされた神社ということで、格外という意味ではありません。

 明治九年(1876)、二社を持つ西矢作村西之切では人家から離れた田地の中にある字盗人木の竊樹社は護持給仕が疎かに成り勝ちになるということで、字祇園に鎮座する加茂社へ合併して境内社としました。

 明治十一年(1878)の「郡区町村編制法」により、伝説に基づいて祀田二十石が置かれた辺りは字尊所の地名が、牛頭天王の境内が在った辺りは字祗園の地名が道路形態などによって区域が確定されました。

 また、櫃竊大明神が在ったとされる字野畑は字小藤領と合併して字竊樹に改められ、寺畑と呼ばれていた地域は字盗人木の地名に含められました。

 明治十一年(1878)十二月十八日、東西の矢作村は合併して矢作村に改められました。

 字盗人木に神社が在ったことを示す地図は存在しませんが、聞き取り調査による情報を基に明治二十四年測量の地図で字盗人木辺りをほぼ特定し、推測した位置とほぼ一致する所に広葉樹の記号があることが確認できました。

 緯度経度から計測すると現在の字末広百十一番と辺りに在ったことになります。

 明治二十六年(1893)二月十九日、矢作村は矢作町に改められ、旧村名は大字となって矢作町大字矢作となりました。

 明治三十九年五月一日、矢作地区の殆どの村が矢作町へ合併して旧村名が大字となり、矢作町は大字矢作東之切を矢作町第一区とし大字新堀を矢作町第三十九区とする区番制を採用して各区に区長を置きました。

 大正二年八月十二日、竊樹社の祭神御気津神を加茂社に合祀して、祭神を加茂別雷大神及び御気津神としました。

 大正五年二月二日、加茂社の社名を竊樹社に改称し、祭神を御気津神及び加茂別雷大神として、例祭日を九月十八日としました。

 主祭神御気津神の「御気」は「御食」即ち穀霊神で、例祭日は「芋まつり」と称して里芋と蒟蒻を煮付けて串に刺したものが参拝者に振舞われました。

 大正十二年(1923)六月一日、愛知電気鉄道(昭和十年(1935)八月一日に名古屋鉄道となる)の駅として矢作橋駅が開業しましたが、その愛知電気鉄道の線路よりも南側に位置する字盗人木辺りは大字矢作四区(西之切)地内にあり、当時は米や麦又は菜種などを栽培する田園地帯で、この頃には祠跡の広葉樹林は既に伐採されていました。。

 昭和十年、字盗人木辺りは東洋紡績株式会社の工場建設用地として売却され埋め立て工事が始まりこの工事が数年に及ぶ中で、昭和十二年七月に日中戦争が起こり、昭和十六年十二月八日には太平洋戦争が勃発して戦乱が拡大し、東洋紡績株式会社の工場建設は中止されたままとなっていました。

 昭和二十年十月十五日、終戦となりましたがこの年の秋は長雨による農作物の不作で食糧事情が悪化し、そんな中で大字矢作字馬乗に在った矢作町役場及び大字中郷字牧内に在った矢作町農業会は東洋紡績株式会社から工場建設予定地を買い戻すことになりました。

 矢作町農業会は買い戻した土地を農地に戻すことは無理と判断し、住宅地として区画整理を行い、昭和二十一年に分譲を開始しました。

 昭和二十二年4月一日、矢作町第一区から同三十九区までの区番制は廃止されましたが、単に一区、二区、三区及び四区という呼称が定着しており、東之切から西之切までの呼称も併称されていました。

 西之切では南部を分割して独立させる施策を矢作町へ要望していたことから、矢作町では昭和二十七年度に矢作町大字矢作を一区から五区までの五つの区に分割する案を町議会に諮ってこれが議決されました。

 昭和二十八年四月一日、矢作町は大字矢作東之切を大字矢作一区とし、同東中之切を同二区、同西中之切を同三区及び同西之切を同四区にそれぞれ改称して、四区の南部を分割して大字矢作五区を発足させるとともに、各切組の呼称を廃止しました。

 昭和二十九年四月二十五日、矢作五区が神社の社壇、祠及び社務所の新築を開始し、同年九月十八日に矢作四区字祇園の竊樹社に合祀していた祭神御気津神を矢作五区竊樹神社へ分祀しました。

 昭和三十年四月一日、碧海郡矢作町は岡崎市へ編入されて旧矢作町の大字が町名となり、旧碧海郡矢作町大字矢作四区は岡崎市矢作町四区となりました。

 岡崎市は昭和二十八年八月一日の町村合併後に自治会の代表者名を「総代」に統一していましたので、岡崎市へ編入された旧矢作町の区長又は大字連絡員と呼ばれていた自治会の代表も総代と呼ばれるようになりました。

 矢作町四区に鎮座する竊樹社は昭和二十九年に穀霊がなくなって祭神は別雷皇太神のみとなっていましたが、平成時代の初めに例祭日を休日(九月第二土曜日?)に変更したものの、「芋まつり」と称した祭礼はその後も続けられていました。

 しかし、平成八年五月二十八日に端を発したO―157の食中毒騒動により、平成九年からは里芋や蒟蒻を振る舞うことを止めて小学生以下の子どもに菓子が振る舞われています。

 平成二十年、竊樹社境内の社務所が解体されて、その跡地に矢作町四区公民館が新築され、同年十月十九日に竣工式が行われました。

愛知縣碧海郡神社寫眞帖(愛知縣碧海郡神職會 昭和二十四年二月十一日發行)



平成二十年十二月二十八日撮影(鳥居が移設されていることが判ります。)


 境内の寄進石造物類

 竊樹社の境内にある「竊樹神社」と刻された社標の寄進者は、矢作町西河原五番地で生まれ東京で働いていた頃に寄進されたものです。

 平成二十年に竊樹社境内の社務所が解体されて、その跡地に矢作町四区公民館が新築され、同年十月十九日に竣工式が行われました。

 神社の鳥居は柱、笠木及び貫の特徴により神明鳥居及び明神鳥居に大別されますが、此処の鳥居は明神鳥居という形式のもので主な構成部品は下から台座、柱、貫、額束(がくづか)及び笠木から成っています。

 明神鳥居の主な特徴は、柱が直立でないこと、笠木の上に島木が載っていること及び貫が柱の外側へ出ていることです。

 「御~燈」と刻されている石灯籠は、東側のものには「文化七庚午六月吉祥日」、「願主酒井源蔵」と刻され、西側のものには「文化庚午三月吉祥日」と刻されています。

 東側の石燈篭は傘の一部が欠落し宝珠は二基ともなくなっていますが、これは昭和二十年(1945)一月十三日午前三時三十八分に起こった三河地震の影響によるものです。

 「獻燈」と刻されている東側の石灯籠には、「紀元二千六百年」、「大河内庄平 志づ」と刻され、西側の石灯籠には、「昭和十五年十一月七日」、「大河内庄平 志づ」と刻されています。

 石灯籠は、用途や形状になどによって色々なものがあり、下からの部分名称は次のようになっています。

 基礎:最下部の足となる部分で、円形、四角形又は六角形などがある。雪見型灯籠などのように三本又は四本の足で構成されるものもある。

 竿 :最も長い柱の部分で、背の低い灯籠では省略されるものもある。円筒形、四角形、六角形又は八角形のものなどがあり、節と呼ばれる装飾が用いられる。

 中台:火袋を支える部分で、最下部の基礎と対照的な形をとり、蓮弁や格狭間という装飾を施すこともある。

 火袋:灯火が入る部分で、灯籠の主役部分でありこの部分は省略することができない。現在では装飾目的のものが多いので火が灯されることは殆どない。

 笠 :火袋の屋根になる部分で、円形、四角形、六角形又は多角形のものがあり、多角形の場合は宝珠の下部分から角部分に向かって線が伸び、突端に蕨手という装飾が施されたものもある。

 宝珠:擬宝珠とも称し笠の頂上に載るもので、野菜の玉葱のような形をしている。 社前の狛犬の手前の石柱は「御大典記念 昭和三年十一月十日」と刻されており、昭和天皇御即位を記念したものである。

 東側の石柱には岩月金四郎、新海清六、稲垣錠太郎、高須勝、大河内庄平及び畔柳玄冶の寄進者名があり、西側の石柱には酒井栄次郎、井上増一、山本信二、小玉昇、兵藤鉄吉及び加藤芳寄進者名が刻されています。

 「狛犬」は前面に東側のものには「奉」、西側のものには「獻」と刻してあり、「大正十五年四月、寄附人岩月宗一郎」と刻されています。

 このほかにも、記念樹標示柱、手水鉢及び外柵の石柱などがあり、平成二年九月の玉垣整備では既設の石柱八十数本で南側及び西側の玉垣が整備され、新しい石柱六十数本で拝殿前側の玉垣が整備されました。

 社殿の西側には「御大典記念樹、昭和三年十一月、矢作町分會」及び「平成天皇御大典記念樹、平成二年十一月」の石柱があり、境内北西の外塀近くには旗竿を建てて固定する時に使用された石柱が四本並べて設置し保存されています。

 社殿前の東側隅に句碑らしきものがありますが碑文は殆ど読めず、建立の経緯等は全く判りません(情報をご提供ください)。



 



 矢作四区の祇園と尊所の字

 京都市の八坂神社は「祇園さん」と呼ばれ親しまれているが、その前身は牛頭天王である。
 牛頭天王は祇園精舎を守護する神であることから祇園神と呼ばれ、日本では素戔嗚尊と同神とされる。
 碧海郡矢作村(現岡崎市矢作町字祇園辺り)に在って「祇園さん」や「天王さん」と呼ばれていた牛頭天王は、度々の水難を避けて同村東方の宝珠稲荷大明神の境内へ移されたのが、矢作神社の前身である。
 この牛頭天王が明治の神仏判然令により現在の矢作神社と改められて、主祭神を素戔嗚尊としたのである。
  初めに牛頭天王の境内があった辺りは祇園と呼ばれて、明治の時代になり字となり矢作村祇園(現矢作町字祇園)となった。
 また、矢作村祇園に在った牛頭天王の境内の近くには神田があり、牛頭天王がなくなった跡は尊所と呼ばれて、明治の時代になり矢作村字尊所(現矢作町字尊所)となった。

 祇園牛頭天王御縁起

 『祇園牛頭天王御縁起』によれば、本地仏は東方浄瑠璃世界(東方の浄土)の教主薬師如来である。
 薬師如来は十二の大願を発し、須彌山中腹にある豊饒の国(豊かな国)の武答天王の一人息子太子として垂迹した。
 太子は、七歳にして身の丈が七尺五寸あり、三尺の牛の頭を持ち、三尺の赤い角があった。
 太子は王位を継承して牛頭天王を名乗り妃を迎えようとしたが、その姿形を怖れて近寄る女人はいなく、牛頭天王は酒浸りの毎日を送るようになった。
 三人の公卿が牛頭天王を慰安しようと山野の狩りに案内し、その途次に人間の言葉を話すことができる一羽の山鳩が現れた。
 山鳩は、「大海に住む沙掲羅龍王(八大龍王)の娘の所へ案内する」と言うので、牛頭天王は娘を娶りに出かけた。
 旅の途次、長者である古単(巨旦とも)に宿所を求めたが、慳貪(けんどん・無慈悲)な古単はこれを断った。
 その兄蘇民は貧乏であったが、宿を貸し、歓待して粟飯を振舞った。
 蘇民の親切に感じ入った牛頭天王は、願いごとがすべて叶う牛玉を蘇民に授け、これにより蘇民は富貴の人となった。
 龍宮へ赴いた牛頭天王は、沙掲羅の三女の頗梨采女を娶り、八年間をそこで過ごして七男一女の子(八王子)を儲けた。
 牛頭天王は帰路に八万四千の眷属(けんぞく・一族郎党)を差向けて、古単への復讐を図った。
 古単は千人もの僧を集めて七日七晩に亘り大般若経を読誦させたが、僧の一人が居眠りしたことにより大般若経を読誦は失敗に終わり、古単の眷属五千余は悉く蹴り殺された。
  この殺戮(さつりく)の中で、牛頭天王は古単の妻が蘇民の娘であるために助命して、「茅の輪を作って、赤絹の房を下げ“蘇民之子孫なり”と書いた護符を付ければ、末代までも災難を逃れることができる」と除災の法を教示した(完)。



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