本文へスキップ

神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 護水山福萬寺 HUKUMANJI

 岡崎市矢作町字西河原十三番地(庫裏は十二番地二)にある福萬寺は浄土真宗大谷派の寺院で山号を護水山と称し、その前身は矢作説教場(真宗大谷派の道場)でした。

 本堂前東側にある「説教場創立碑」にその由緒が、次のように刻されています。

「抑々石川要蔵氏は岡崎市西照寺門徒にして世々農を營み妻を安城町大字大濱茶屋より娶り一男を擧ぐ不幸九歳にして卒す 茲に夫婦宿善の機到來し求法の志篤く再來嗣子も無く倍々世態の無常を觀し農閑あれば聞法に勉む然り 而して其の病危篤に及び妻并に地方有力者を臥床に招き遺言して曰く我等夫婦の死後は此家産を以て眞宗の説教塲を創立し以て地方男女の長え(とこしえ)に法雨に浴せしむる事を希うと 于時要蔵氏は七十七歳にして命終せらる 偶々其の當時夫婦の聞法に深縁ある岡崎市田町水除説教塲廃止せられたるを以て其の建造物を購い(あがない) 明治二十一年四月其の遺産と地方諸氏の助力を以て一宇を建立するに至れり。依て其の事跡を刻し後世に傳うと爾云
     大正十二年十一月          和田圓什謹撰并書」

 岡崎町西照寺は現在の岡崎市十王町一丁目五番地にある真宗大谷派柳堂山西照寺のことですが、その前身は碧海郡桑子村にあった天台宗寺で「安城の主安藤権守が親鸞聖人に帰依して弟子となり法名釋圓善を賜って、時の柳堂の住職孝順阿闍梨が老衰たるに依り住職を譲られて柳堂一向専修の開祖となり西照寺は即圓善の後裔にして柳堂法嗣相續の寺なり」といいます。

 また一説に、「親鸞聖人に帰依した二人の弟子が釋西勝及び釋正蓮の法名を賜り、後年釋西勝は轉馬に庵を構え釋正蓮は八町村下川崎に庵を構えて、後にそれぞれ寺号を西勝寺及び正蓮寺としたともいいます。

 「岡崎市田町水除説教場」とあるのは、「岡崎町板屋町水除説教場」の誤伝承です。

 碑文の結語に「爾云」とあるのは、漢語の「云爾(うんじ)」の誤植で、「しかという」の意味です。


 江戸時代の額田郡岡崎町田町に一向宗の福萬寺がありその創建期等は一切不明ですが、寛永八年十月二十日(1631・11・13)に私人の新寺建立が禁止されていることからこれ以前のことになります。

 また、断絶の時期は「天正の頃断絶す」とするものがありますが、天正年間にはまだ田町が誕生していません。

 天正十八年七月五日(1590・8・4)に関東の北条氏政を降伏させた羽柴秀吉はその後諸大名の大幅な配置換えを行い、家臣の田中吉政は天正十八年十月二十日(1590・11・17)に五万七千四百石で三河国岡崎へ入封しました。

 吉政は岡崎城下の町を七つに分けて堀で囲む田中掘を築造し、東海道は城郭内を通るようにするなどの城郭拡張整備で城下の神社仏閣の建物や領地の多くを没収し建物は解体して堀や橋の構築材として利用したりしたといいます。

 岡崎市史第七巻(昭和四年九月九日発行)の第九編第四章第十三節「廃寺」の項には「福萬寺は田町にあり一向宗の寺であった。天正の頃断絶す。其後再興して禅宗となり、今は移転して金谷村にあり浄土宗に改む」と載せています。

 参河国額田郡村誌第二十四号「沿革」(明治18年頃の内務省調査 東京大学総合図書館所蔵資料の複製)には、「岡崎町田町は往昔大いなる沼にして拡膜たりして文禄年間田中兵部少輔在城の際田地を開墾し又城西搦め手口に稗田門と称せしあり。田に縁由あるを以て田町と称すると口碑に云う。古来改称変移なし」と載せています。

 即ち「田町の福萬寺は天正の頃断絶す」とする説は、田中吉政が「城郭拡張整備で城下の神社仏閣の建物や領地の多くを没収し建物は解体して堀や橋の構築材として利用したりした」という説に合わせた付会と思われます。

 天正年間は天正元年七月二十八日(1573・9・4)から天正二十年十二月七日(1593・1・5)までのことですが、参河聰視録に「福萬寺境内の稲荷社は福萬稲荷大明神と称して寛政十年二月十一日(1798・3・27)に宝飯郡豊川村の豊川稲荷から勧請した」と載せています。

 また、寛政年中(1789〜1801)の初め頃から編修が行われて文化四年(1807)の初め頃に発行された東海道分間絵図に田町の福萬寺南側大門辺りに赤い鳥居があり、本堂の北側の境内に福萬稲荷大明神が鎮座している様子が描かれています。

 新編岡崎市史史料近世7の付表に「市域内町村沿革・石高・領主変遷一覧、御城下町領分」に寛政元年(1789)、天保五年(1834)及び明治元年(1868)の欄に田町の「福萬寺除地 岡崎藩」と載せています。

 「文化二年四月(1805・5)改岡崎神社仏閣御朱印地除地明細書に御除地高三斗三升四合福萬寺屋敷、當寺無住田町庄屋支配仕候云々とある」と載せています。

 参河宝年大全(明治四十一年九月一日西三新報編輯局発行)に見える田町の稲荷社は、明治の時代に無格社稲荷社(田町二十七番地)となり、大正二年二月十一日に板屋稲荷神社に合祀されています。

 田町二十七番地からその南側辺りに在った福萬寺の境内は二十七曲りの街道沿いで、現在の地番は田町六十四番地から六十七番地までの辺りと推測されます。

 参河国額田郡村誌第二十六号「道路」に「岡崎町田町は、第一等国道で東京より本町を貫き西京に至る乃ち東海道なり。本町二丁五十八間」と載せています。

 「田町に在った福萬寺は今は移転して金谷村にあり浄土宗に改む」とするものがありますが、金谷村とは、明治十一年七月に三河国加茂郡が東西に分割されて西加茂郡に属した金谷村のことで、明治二十二年十月に今村、下市場村、下林村、長興寺村及び西山室村の五ヶ村と合併して根川村となりました。

 明治三十九年七月には、梅ヶ坪村、逢妻村、挙母町及び宮口村の四ヶ村と合併して挙母町になった後、挙母町は昭和二十六年三月に挙母市となり昭和三十四年一月に改称して豊田市となりました。

 その豊田市金谷町五丁目二十六番地にある浄土宗田地山福満寺は元禄四年の創建とされています。

 即ち豊田市金谷町にある浄土宗田地山福満寺及び岡崎町田町に在った福萬寺は、創建期、宗派及び寺号が異なり全くの無関係で元から別の寺院す。

 参河志第三十五巻の本願寺宗寺院部に額田郡岡崎板屋町水除道場が掲載されており、江戸時代から在った板屋町の真宗本願寺派水除道場は場所を特定することはできませんが、現在の板屋町八十番地から八十三番地までの辺りに在ったものと推測されます。

 板屋町水除道場を移築した先の当時の地番は矢作町字西河原十三番・二十九番で、床面積は八十七坪でした。

 田町福萬寺の本尊が方便法身絵像から立体像へ取り替えられた時、この絵像が何らかの経緯で板屋町水除道場へ伝わり、それが矢作説教場へ建物を移築するとき一緒に移されたようです。

 護水山福萬寺の三代目住職の母が本尊右側の脇掛(帰命尽十方無碍光如来)の裏書に三河国福萬寺と記されていることに気付き、その有縁を以て福萬寺の寺号を受け継いで使用することにしたといいます。

 また、隣の家で塗り師業を営んでいた屋号ぬし角の主人から「説教場を造るときは、弥五騰社の境内にある溺死菩提の供養宝塔があるように矢作川の洪水による水難を避けるため畚(もっこ)を担いで土を運び上げ高くしてから移築した」という苦労話を聞いた三代目住職はこれを基に、昭和四十六年の本堂改築時に山号を護水山と名付けました。


 篤志家の寄付による浄財を以て平成二十二年から行われた屋根の銅板葺き替え工事及び外壁塗り替え工事は平成二十三年三月に完了し、四代目住職はその経緯を刻した「中興之祖碑」を本堂前に建立しました。

 碑文
「吉田英生・澄子夫妻は共に福万寺門徒として崇敬の念厚く、本堂修復をはじめ納骨堂建立・内陣仏具の整備等々の御寄進を賜り、寺門の興隆に誠にご尽力いただきました。依って茲に開基同様、中興之祖として記念の碑を建て後世にその御功績を伝え世世に法要を勤修致します。    平成二十二年  福万寺住職 戸松憲仁」

ナビゲーション

バナースペース

矢作町界隈記

記事の無断転写等使用を禁じます。
管理人

inserted by FC2 system inserted by FC2 system