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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。

TEL. 0564-31-****

〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所

 矢作町一区八劔社 YATURUGISHA

 矢作町字八剱に鎮座する十五等級八劒社(やつるぎしゃ)は、矢作町一区氏子の氏神様(鎮守)です。

 社標に、八劔神社、碧海郡矢作町、字八劔 明治廿七年七月廿八日建之 願主山田冨次郎、境内反別五畝七歩 官有地縣廰距離八里三拾町、と刻してあります。

 社標に刻されている「八劔神社」の社名は通称名で、神社庁に登録されている社名は「八劒社」です。

 元は神明社で、天正年間(1573〜1592)の頃には四月十五日の神御衣祭(かんみそさい)の時には岡崎稲前天神の神輿の渡御があり御旅所の宮とも称したと伝えられます。

 「神御衣祭」は「御衣祭(おんぞさい)」とも呼ばれて伊勢神宮に伝わるお祭りですが、岡崎古事伝は「黼衣祭」の文字を当てて、「黼衣祭」は例年四月十五日、稲狭天神(いなくまてんじん)より神輿出て、四方東は根石神社、西は矢作神社、南は星f神社、北は能見神社まで神幸ありて夕方御本殿に納り玉う。是を黼衣祭と謂うなり」とあります。

 神明宮の「おんぞさい」のお祭りは口伝誤りから訛って「ふんぞさい」と呼ばれたことから岡崎古事伝に「黼衣祭」の文字が当てられたものと思われます。

 此の日七歳以下の女子は歌を謡いて行路す。是を御衣の子供踴(おど)りと云うなり。歌に天照す御影を今日は島の中にしばし計りや神幸をぞする源盛国と載るとあります(源盛国は美濃国から出て武蔵国で名を挙げた刀匠の事か)。

 岡崎稲前天神は、鎌倉時代(1185〜1333)に至りこの地が武家の庄地となって對面所(現在の材木町)の辺りへ移され、天正十八年(1590)に田中吉政が大規模な城郭拡張を行った時に元神明へ移されて、その後現在の地(稲熊町)に遷座されています。

 八劔社の縁起には、「元は碧海郡矢作村字桜街道沿いに鎮座し、境内の縁には竹が繁密していてその中に小祠一宇を置いて伊勢皇太神宮天照大神を祀った神明宮であったが、いつしか日本武尊を合祀して八劒大明神と称されるようになり水難を避けて現在の社地に遷座した」とされています。

 しかし、矢作村字桜街道辺りは隣接する字を含めて明治時代の半ばに至っても一面田圃で神明社が祀られているような場所ではありませんでした。

 然も、寛政年間(1789〜1801)の絵図には既に古井街道沿いの現在地に神明宮として鎮座していたことを示す史料が存在することから、実は「元は碧海郡矢作村字古井街道沿いに鎮座し、境内の縁には竹が繁密していてその中に小祠一宇を置いて伊勢皇太神宮天照大神を祀った神明宮であったが、文政十一年七月一日の大洪水で矢作川の堤防が切れて大参事となった時、流されてきた家などにより神明社も一緒に押し流され、この時の再建に当り水難を避けるために土を運び上げて社壇を高くし日本武尊を合祀して八劒大明神と改称した」とするもので、本殿は宝飯郡能見村(現岡崎市元能見町)の神明社へ向けられています。

 慶応四年(1868)の神仏分離令により神仏習合色が廃されて、八劒大明神は社名を八劒社と改めました。

 明治五年十月の神社調査の際に、鎮座地碧海郡矢作村字八剱、社名八劒社、祭神天照大神及び日本武尊の二座、例祭日七月二十八日として神社明細帳を提出し、その翌年に矢作村員外社(旧無格社)となりました。

 鳥居には「石工 久米清兵衛尉藤原長定」という刻銘が見えます。

 灯篭は「御神前」、「寄附人 小嶋勝太郎」、「昭和八年五月建立」と刻されています。

 「奉」及び「獻」の狛犬は「大正十五年十一月」、「寄附人 安部豊三郎 河合?治郎 浅井鹿次郎」と刻されています。

 境内には、近年創建期不明の稲荷神が祀られています。

 平成二十二年(2010)に社殿が改築されました。


愛知縣碧海郡神社寫眞帖(愛知縣碧海郡神職會 昭和二十四年二月十一日發行)


平成二十四年五月三日撮影


平成二十四年三月撮影


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