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神社は祖先を氏神として祀ったことに始まります。
矢作町界隈記
TEL.
0564-31-****
〒444-0943 愛知県岡崎市矢作町字尊所
矢作町西之切組の山車
嘉永七年甲寅六月、矢作村上之切の役員畔柳八十右衛門、岩月文六、伊藤平七、岩月吉蔵及び世話方中、三浦新八、岩月平右衛門、新海松四郎、岩月清右衛門、岩月文七、新海安蔵、酒井源蔵、石川和助、畔柳太郎右衛門、新海新右衛門、生駒善十郎により、山車が製作されました。
慶応四年九月三日(1968・10・18)に東亰府(とうけいふ)が誕生し、明治二年(1869)に天皇の東京滞在が発表されたことにより、矢作村祭り組の呼称は「上」が「西」に、「下」が「東」改められて、東之切組、東中之切組、西中之切組及び西之切組となりました。
明治二十二年に東京市が発足し、東京府は「とうきょうふ」と呼ばれるようになって、昭和十八年(1943)に東京府及び東京市が合併して東京都制が施行されるようになりました。
明治二十六年(1893)二月十九日に矢作村は矢作町に改められ、明治の末期頃には西之切の町費が時勢の進運に伴わず逼迫するようになりました。
明治四十三年七月、祭りの継続は困難と考えた町役員は加茂社社務所に組員一堂を集め、山車の売却の議を諮りその賛同を得ました。
この頃、舟で矢作川の矢作土場へ松材を搬入していた知多郡内海町大字山海(現知多郡南知多町大字山海)の人が矢作町西之切組の山車が売りに出されたという話を聞いて購入の検討が行われ、大正四年(1915)九月に西村区が約八百円で購入されました。
時は過ぎて、矢作町西之切改め矢作町四区では明治の時代まで在った当区の山車は南知多町山海地区に在るらしいことの噂が伝わっており、昭和五十年代終わり頃の町役員会の席で当時の矢作町四区総代平岩松郎氏がこのことを紹介しました。
平成の時代になって、各地の山車について調査研究を行っている方から元総代平岩松郎氏の処へ「西之切組に在った山車は現在南知多町大字山海字西村に在ることを確認した」という知らせが届きました。
平成五年(1993)四月四日(日)の山海西村区祭礼日の午後、元総代平岩松郎氏の呼び掛けにより井上宏氏、三浦三夫氏及び岩月計則氏の四名で西村区の八幡社(知多郡南知多町大字山海字長坂七十)を訪れました。
岩月氏は更に平成五年十月二十三日(土)に再び山海地区を訪れて山車の詳細な写真を撮影し、これら情報を基にパネルを作成しました。
平成五年(1993)に作成されたこのパネルは矢作町四区の竊樹社社務所に掲示してありましたが、平成二十年(2008)の公民館建築に伴い竊樹社近くの岩月仏壇店の御主人岩月計則氏によって保管されています。
岩月計則氏はその後も何度か山海西村区を訪れて山車の寸法や彫刻の様子などの詳細を調査し、錺金具師吉田氏及び彫刻師石川氏の協力を得て各氏の本業の匠の技を駆使しそのレプリカを完成させました。
このレプリカは岩月仏壇店の店頭に展示されています。
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